■天使の飴玉 1■



 どうすればいいんだろう……。
 冬の青い寒空を見上げながら僕は密かにため息をつく。
 そろそろ限界なのは自分でもいい加減理解していたが、どうしようもなかった。
 だからってこのまま蛇の生殺しはごめんだ。
 本当にどうすれば……。
 ああ……あんな所で子供が遊んでいる。
 一緒にいる女の子は……ガールフレンドかな?
 無邪気なもんだな、キスなんかして……
 あれくらい小さかったら僕もスカリーに何の躊躇いもなく……


 金曜日の昼下がり……。

「……ん?」
 コートに何かが引っ掛かっているらしく視線を下げたモルダーは思わず破顔する。
 母親に連れられて散歩にでも来たのであろうか、まだほんの小さな男の子が彼のコートの裾を掴み引っ張っていたのだ。
 紺色のブカブカのダッフルコートの上から趣味のいいマフラーを結んだまだ3歳くらいの愛らしい顔立ちをした男の子のブラウンの髪を思わず撫でてやりながら少しでも視線を合わせようとモルダーは屈み込む。
「やあ、坊や。ママと一緒にお散歩かい?」
「……あげゆ」
 唐突な言葉にモルダーは一瞬面食らう。
 男の子がコートのポケットから出したのは半透明なセロファンに包まれた飴玉が2つ。
「僕にかい?」
 自分の鼻を指差すモルダーに男の子がぐいと目の前に飴を握った小さな拳を突きつける。
「いっちょにたべて」
「……一緒に?」
 澄んだブルーの瞳に見つめられ困惑しつつも言われるがまま飴を受け取る。
 なんだ食べさせて欲しかったのかと包み紙を開こうとした時、男の子は天使のような笑みを浮かべあまりの愛らしさに、モルダーの目も細くしたその時であった。
「モルダー、お待たせ」
 背後からの聞き覚えのある声にモルダーは立ち上がりながら振り返る。
 少し用事があるからと遅れてきたスカリーに向かって軽く手を挙げながら、モルダーは知り合いになったばかりの男の子を紹介した。
「紹介するよ、スカリー。この子は……」
「モルダー、紹介って……」
 怪訝そうなスカリーの様子にモルダーがもう一度視線を戻すと……そこには誰もいなかった。
「変だな……」
「大丈夫?あなたここ最近あまり寝ていないみたいだし……」
 周囲をいくら見回してもあの男の子の姿はどこにもなく、どう考えても2、3歳の幼児が一瞬の間に消えてしまうとは思えない。
 何よりも男の子から受け取った飴玉が2つモルダーのポケットに残っている。
 納得がいかないが先程までの捜査で心身共に疲れていた事を思い出す。
 スキナーも報告は月曜でもかまわないと許可は出ている事もあり、局には戻らずそのまま帰ろうという事で2人の意見は一致した。

「君も食べる?」
 モルダーが運転しながらポケットから飴玉を1つスカリーに寄越す。
 受け取った彼女も何故彼がこんな物をと小さく笑いながら受け取ると早速包み紙をほどく。
「どうしたの、これ?」
「可愛い天使からのプレゼント」
「天使?」
「そう。天使がくれた飴玉さ」
 随分とまたロマンチックな事……。
 それ以上言葉を返す事はせずスカリーは乳白色の飴を口に入れ、包み紙を片手で開こうと苦労しているモルダーの様子に飴を取り上げると中身だけを彼の口の中に入れてやった。
「助かったよ」
「これで事故にでも遭ったら洒落にならないし……」
 程よいミルクの甘さが疲れた身体に浸透していくようで2人は暫くの間飴玉の味を楽しんでいたが、程なくスカリーのアパートメントに到着する。
「……少し休んでいく?」
 疲れたように眉根を揉んでいるモルダーの様子にスカリーがお茶でもどうかという誘いに乗らない彼ではなかった。
「せっかくのお誘いだしね。ありがたく頂くよ」
 口の中の飴はとうになくなっており味の余韻だけが残っている。
 だが車から降りたモルダーは不意に立ち止まった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
 しきりにスーツのズボンを持ち上げているモルダーの姿にスカリーが怪訝そうに見つめている。
「いや……なんだか急にブカブカになったというか……」
「ベルト、切れたんじゃない?」
 疲れのせいでとにかく早く部屋に戻りたいスカリーは思わずベルトを確認しているモルダーをチラリと一瞥しただけで、さっさと中に入ってしまう。
「待てよ、スカリー!」
 ずり落ちそうなズボンを手で持ち上げながらモルダーも慌てて後を追う。
 エレベーターの前で待つスカリーに漸く追いついたと同時に扉が開き2人は乗り込む。
 すぐに扉が閉まって2人が顔を見合わせた瞬間、2人は同時に凍りつく。
「……スカリー、君……」
「あなたこそ!」
 確かにそこにいるのはFBI特別捜査官であるモルダーとスカリー……の筈であった。
 だがお互いどう見ても二十歳前後の若い男女がお互いを信じられないといった状態で見つめ合ったまま動かない。
 その間にも変化は着実に訪れる。
 動けないでいる2人の目線がどんどん低くなっていく。
 同時に2人のズボンが音を立てて床に落ち、スーツの上着の裾が床すれすれに届くまでになる。
 今や2人の姿は10歳前後にまで後退しており、ヒールを履いていたスカリーがバランスを崩して転ぶのと同時に音を立ててエレベーターの扉が開いた。
「スカリー、大丈夫か?」
 今や邪魔になった靴を脱ぎ捨てながら少女のスカリーを助け起こしたモルダーの声は変声期前の甲高い少年の声。
「え、ええ……」
 助けられながらも立ち上がったスカリーは床に脱げ落ちた自分のとモルダーのズボンや靴を掻き集め両腕に抱えながら転がるようにエレベーターから廊下に飛び出す。
「とにかく、早く部屋に入るんだ!」
「わかってるわよ!」
 甲高い子供の声が廊下に反響する中、2人の姿は更に幼くなっていく。
 漸くスカリーの部屋の前まで辿り着くが、すでに2人にとってはこのなんでもない扉が堅固な城壁のように見えていた。
「ちゅかりー、鍵は?!」
「ちょっと待って!」
 すでに上着の中で溺れている状態のスカリーが漸く鍵を取り出し腕を伸ばしてから青ざめる。
「届かないのっ!」
「僕の上にのりゅんだ!!」
 床に四つん這いになった幼子のモルダーの背中に足を掛け漸くドアノブに手が届きやけに重く感じる扉の鍵を開けると必死に扉を開けた。
「いちゃいっ!」
 扉がモルダーの頭を直撃しスカリーの重みに耐え切れず崩れ落ち、2人はその場に重なり合ったままもがき続ける。
「重いっ!!」
「モルダー、痛いっ!」  声と騒ぎに同じ階の住人達が何事かと廊下に出てきた。
 が、そこには誰もおらず何故か男物の靴が片方だけその場に残されている。
 とはいえこの部屋の住人には夜中であろうが構わずに訪問する男性がいる事を知っていた隣人は、肩を竦めたまま自分の部屋へと戻っていった。

「たちゅかった……」
「ええ、なんとかね……」
 扉の前で脱げた服と一緒になってひとかたまりになっていたモルダーとスカリーは思わず安堵の溜息をつく。
 しかし気の抜けたような顔をしているモルダーの姿を見てげんなりとしたかのように、スカリーが違う溜息をついた。
「で、モルダー。これがいったいどういう事なのか……説明してもらえるわよね?」
 目の前の金褐色ふわふわの髪をしたあどけない顔をした幼女の片眉が上がる様子に、ブラウンのサラサラヘアの幼児は本物以上に愛らしい子犬顔をしたまま肩を竦める事しかできずにいる。
 もつれあったまま服に埋もれていた2人はとりあえず立ち上がると、着ていたYシャツとブラウスだけが2人の身に付ける物となっていた。
 床に散らばった服もそのままに、2人はカウチの上に上がり込む。
「君のあぴゃーとにはいっちゃ途端にこうなったんだよな……」
「違うわ。車から降りた時、あなたズボンがゆるいって言ってたじゃない」
 私の住んでいるアパートのせいにしないでちょうだいと、スカリーはぴしゃりとアパートメント陰謀説を跳ね除ける。
「ちょうだっけ?」
 ぶら下がっている両腕の袖を持ち上げながらモルダーは顎の下に手をあてながら考え込む。

 つい数時間前まで手掛けていた事件はXFとはなんの関係もないただの殺人事件だった。
どう考えても原因はそれじゃないなと考えながら口の中で微かに残っている飴の味を楽しんでいたモルダーは、まさかと顔を上げる。
「もちかちて……」
「心当たりでもあるの?!」
 のしかからんばかりの勢いで迫ってくるスカリーの気迫に気押されながら、モルダーは鼻先がくっつきそうなくらい間近に迫っている彼女の桜色の愛らしい唇に目を奪われたままだ。
 ああ……今すぐ君にキスしたい。
 でも……実効したらこの可愛らしいグーパンチで殴られるんだろうな……。
 どちらにせよ彼女に叱られるのは間違いないのだから、モルダーは諦めたように口を開いた。
「ちゃっき僕たちが舐めた……あの飴……」
「……」
 モルダーの言葉を思い出す。
 天使がくれた飴玉さ……。
 その言葉だけが頭の中をぐるぐると回る。
「で、あなたがいう天使はどこのどなた?」
「ちゃっきの広場で君を待っていた時、ちいちゃな坊やに会った。で、ちょの子が僕にこりぇをくれたんだ」
 カウチから下りたモルダーは床に放り出されたままであるスカリーの上着のポケットから飴を包んでいたセロファンを取り出す。
「そのせいで、私達がこんな姿に?」
 腕組をしたスカリーの睨みは子供とは思えない程険しい。
「たびゅん……」
「でもあなたはずっと一人だったわ」
「ちょんな事はない!たちかに僕は……!」
 むきになって言い返すモルダーの姿は幼くともやはり変わっていなかった。
 ああ……やっぱりこの人は……。
 唐突に浮かんだ思いを頭の隅に押しやり、スカリーも仕方がないとばかりにカウチから下りる。
「モルダー、もういいわ」
「にゃにがいいんだよ?」
 拗ねたように横を向くモルダーにスカリーは歩み寄ると袖の中に埋もれた手を出し今や同じ背丈となった彼の柔らかなブラウンの髪に触れながら困った人と口の中で呟く。
「とにかくこのままじゃどうしようもないから、これからの事を考えましょう」
 優しい声にこっくりと頷いたモルダーの表情はあまりにもあどけなく天使のようで、スカリーは思わず目を逸らしてしまっていた。


「あなた達……」
 目を見開いたままスカリーの母マーガレットは扉の前から動けないでいた。
「ママ、事情を説明するからとにかく中に入って」
 ブラウスを腕まくりしている裸足の幼女に促され、マーガレットは急いで中に入り扉を閉める。
「おひしゃしぶりでしゅ、ちゅかりーのおかあしゃん」
 幼女の隣に立っていたこちらもYシャツの中に埋もれた幼児が礼儀正しく挨拶してくる。
「あなた達……ダナ……それにフォックス?」
「ママ、フォックスじゃなくモルダーよ」
 幼女の訂正に、間違いなくこの子は娘のスカリーである事を確信したマーガレットであった。
絶対に信じてもらえないと言い張るスカリーの思いとは裏腹にとりあえずモルダーが事情を説明すると、あっさりとスカリーの母は信じてくれた。
「ママがこんな話を信じるなんて……」
 思わず頭を抱えるスカリーを前にマーガレットは困惑しながらも目の前の幼子に慈愛の笑みを浮かべながら見つめている。
「信じるも信じないも……ダナ、あなたが助けて欲しいって電話してきたのよ。
それにママはフォックスの言う事を信じるわ」
「ありがとう、おかあしゃん」
 舌足らずながらもきちんと礼を述べるモルダーが、どうやら可愛くて仕方がないらしい。
 とにかく何か食べましょうとキッチンへと向かうマーガレットの後を何故かモルダーがウキウキとした足取りでついていく姿は……まるでおばあちゃんと孫。
「僕も、てちゅだいまちゅよ」
「いいのよフォックス、あなたはダナと一緒にのんびりテレビでも見てなさい」
 明日朝一番に服を買いに行きましょうねと楽しげ会話する母とモルダーに、スカリーは諦めたように先週届いた医学雑誌に目を通す。
 この1週間忙しく読み暇すらなかったのだが、雑誌を広げはじめ数行も読まないうちに睡魔が訪れる。
 眠くて仕方がない。
 今日は本当に疲れたわ……まさかモルダーと一緒に子供に戻ってしまうなんて……でも……大丈夫……明日に……なれ……ば……。
「……ちゅかりー?」
 声を掛けそっと肩を揺する。
 疲れているのだろう、寝入って間もないというのに熟睡している姿にモルダーは考える。
 この姿でなければ抱き上げてベッドまで運んであげる事ができるのに……。
 とりあえず寝室に向かい毛布を引きずりながらリビングに戻ると小さな身体にかけてやると、口の中で何か言いながら毛布に顔を押し付けている姿に思わず笑いが漏れる。
「……愛ちてるよ、ちゅかりー……」

 確かにこの姿なら少しだけ勇気が出たよ。
 少なくとも君を前にして告白できた。
 但し、熟睡している君にだけどね……。



To be continued....




by 歩々

 

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