■魔女の宅急便■
「…これは、一体なに?」
スカリーは、いま自分の手にある物の正体を判断しかねていた。
簡単に言えば、直径4インチほどの光の玉だ。でも、うっとりするほど美しい。
虹色に輝くシャボン玉の表面を、真っ白なシフォンが覆っているといったところか。
ほのかな光の中でさまざまな色が、淡く繊細に揺れている。
まるで質量が感じられず、ホログラムのように心もとないけれど、掌に伝わる温かさがその存在を肯定していた。
新種の発光虫かとも思い、彼女は光の中心に指を入れようとして、また驚く。
光を触れるはずがない。
しかし、指の先に押されるようにわずかに変形したそれは、“柔らかかった”。
…モルダーが見たら、大喜びするわね。
彼女の相棒ならともかく、スカリーには認めたくない類の物だが、実際に目の当たりにしていては、否定のしようもない。
誰が送ってきたのかしら?
開けたばかりの箱を確かめる。
送り主の名前はない。というより、荷札そのものがない。
側面に黒い子猫のイラストが描かれているだけだ。
届けてくれたのは、黒いワンピースを着た愛らしい少女だった。
“ダナ・スカリーさんですね?”
友人との電話の最中だったので急いで受領書にサインをして、控はもらわなかった。
これの送り主として最も相応しいと思われるのは、さっき顔が浮かんだ相棒。
だが、モルダーなら直接彼女の元に持ち込んでくるか、自宅に呼びつけるだろう。
それでも一応、彼のアパートに電話してみる。すぐ留守電に切り替わった。
他にも数件かけてみたが、誰も荷物など送っていないと言う。
全く手がかりがつかめずに途方に暮れ、カウチに腰掛けてスカリーは小さなため息をついた。
眼前のテーブルの上、数インチの所に丸い光が浮かんでいる。
これを私にどうしろと言うの?
光の玉は浮いたまま、彼女の胸のあたりまで近寄って来た。
得体の知れない物なのに恐怖感はなく、むしろどこか懐かしくて、安らぎさえ覚える。
なぜか、“これ”は決して自分を傷つけないという、確信めいた気持ちまであった。
彼女の心持ちは別にしても、興味深い物であるのは事実だ。
スカリーはとりあえず、しばらく観察してみることに決めた。
…それにしても…、親鳥ってこんな気分かしらね。
彼女が歩くと、ふわふわと後をついて来る。
急に立ち止まってみれば、勢い余ってぶつかり、ぽわんと跳ね返る。それでもまた、ついて来る。
生物かどうかもわからないのに、なんだか可愛くなってきた。
土曜日が終わる頃には、スカリーはこの不思議なものにつける名前を考えていた。
思わず笑みがこぼれた。
帰宅したスカリーは、例の物体に迎えられた。
「ただいま」
ひとり暮らしの長い彼女には、こんな挨拶をできるのも嬉しかった。
彼女はこれに“シン”と名づけた。古代バビロニアの月神の名だ。
柔らかな光は月光を思わせて、見ているだけで穏やかな気持ちにしてくれる。
昨日は一日中飽きることなく、シンと戯れて過ごした。
おかげで、休みの間に読むつもりで買った小説は鞄に入りっぱなし。
でも、スカリーはどんな物語よりも突飛なこの状況を楽しんでいた。
シンといる部屋の、春の陽だまりのような心地よさ。
当初の目的である観察など、どうでも良くなっていた。
私らしくないって、モルダーに笑われそうだわ。
笑うどころか彼女の変化を大歓迎しそうな彼は今日、ちょっとおかしかった。
話していても、心ここにあらずといった感じ。
そういえば休みの2日間、彼から電話がなかった。
こんな事はめずらしい。スカリーの記憶にある限り、彼が失踪した時くらいだ。
一昨日彼女が電話をした際は部屋には居たそうだが、出る気になれなかったと言っていた。
「何か急用でも?」
「…別に用と言うほどの事じゃなかったからいいの」
シンの事を相談しようかと思ったがやめた。
実のところ、彼女自身少々疑っていたのだ。
急激な環境の変化による精神的な疲れから、自分は幻でも見ているのではないかと…。
“精神的な疲れ”
それなら、仕事漬けの以前の生活の方がよっぽどあったはず。
彼女の今のオフィスは、薄暗い地下室ではない。
相棒とともに配置転換されて、真っ当な仕事を与えられていた。
そう言うと聞こえはいいが、体のいい左遷だ。
しかし、電話で身元調査をするのが仕事の職場は、身の危険に晒されることもなければ、人間離れした容疑者と対峙する場面もない。
土日だってきちんと休める。残業も不要。今日も定時に局を出て来た。
こんな毎日が当たり前なのだと思う。
ただ、スカリーにはどうしても馴染めなかった。
隠された真実を追い求めて突っ走って来た日々。
解き明かされない謎に満ちた事件は、多くの新たな発見にも出会わせてくれた。
未知への扉の前に立つ時の、辛い事さえ先へ進む糧にできるほどの高揚感。
それを知った彼女にとって、今の生活こそが重い枷であり、澱んだ沼を泳ぐような疲労を感じる元でもあった。
おそらく彼女の相棒にとっても…。
「そうね。モルダーも少し疲れているのかもしれない…」
彼女は、昨日よりちょっと大きくなった気がするシンに向かって呟いた。
昨日といい今日といい、モルダーは元気がなくて、ぼーっとしていた。
とりあえず仕事はこなしているものの、電話のボタンを押し間違えたりして、なんとも頼りない。
後ろの席に座るスカリーは、時々彼がバツの悪そうな顔をして振り返るので、その度ごとに眉を上げてみせた。
すると、どういうわけかモルダーの表情に安堵の色が浮かぶのを、彼女は知っている。
ここでも私は親鳥なわけね…。
噂好きな同僚達の手前、あまり保護者然と振舞うのも憚られるため、彼女は努めて無関心を装う。
モルダーとの無駄話のない勤務時間は、いつもより余計に長かった。
時間が来るとともに帰り支度を始めたスカリーは、書類を手に立ち上がったモルダーと目が合った。
彼の“おつかれさま”という言葉に“そちらこそ”と言いたくなったが、彼女は口の端を上げるだけにしておいた。
オフィスを出る時に大きな音がして振り返ると、彼が屑カゴに躓いて転んでいた。
スカリーは、毎日アパートに帰るのが楽しみになっていた。
彼女が戻るのを待っている存在があるからだ。
ドアを開けた途端に寄って来て、子犬のように彼女にまとわりついて離れようとしない。
かまってやると輝きが増す。それに、やはり少しずつ大きくなっている。
まるで彼女の言葉や態度がシンの栄養になっているみたいだ。
さて、私はちゃんと物質的な栄養を摂らなくちゃね。
手元をうろつくシンを除けながら、夕食の支度に取り掛かる。
手間はかかっても、テイクアウトの食事よりずっといい。
ふと、彼女にチャイニーズ・フードの袋を上げて見せるモルダーを思い出す。
彼は、おとなしく仕事をしていた。
今日はスカリーを振り向く事もなかった。
彼女の邪魔をしないでいてくれる分には良いのだけれど、ここまでだと却って心配になる。
ランチに誘っても、食欲がないと断られた。
「どこか具合でも悪いの?」
「いや…」
だが、顔色が悪い。額に手をやってみたが、熱はなかった。
そもそも本人が否定しているのだから、それ以上問い詰めることはできないし、帰り際に「きちんと夕食を摂るのよ」と声をかけるに留めた。
ちゃんと栄養のある物を食べていればいいけど…。
いつのまにか沸騰していたパスタの鍋が吹きこぼれて、コンロの火を消した。
ほんの少し前までスカリーを休息から遠ざけ続けていた男は、このところ彼女に暇をくれている。
但し、モルダーがくれる暇な時間には、もれなく“懸念”が付いてくる。
結局のところ、彼を案ずるあまり彼女の気は休まらない。
パタリと途絶えた深夜の電話と突然の訪問。
のみならず、今日などはオフィスでの会話さえなかったのだ。
スカリーへの態度云々の問題ではなく、日ごとに気力を衰えさせていくように見えた。
まるで情熱の拠り所を失ったみたいに、瞳の色が翳っていく。
スカリーは彼のアパートに寄ろうか迷った末、行かずに帰って来た。
普通なら、勤務時間外に異性の相棒を訪ねたりしない。
特殊な状況下にあった以前とは違う今の環境を機会に、“普通”の同僚としての在り方に慣れる方がいい。
彼からの強い信頼だけじゃ足りなくなっている自分を律するためにも。
欲しいものを欲しいと言えない彼女のいいわけは、突然現れた彼の昔の恋人だったり、近づき過ぎた距離だったり…。
FBIに入局した時、もしも別の課に配属されていたら…。
その方が楽だったかもしれないとスカリーが思った瞬間、照らされていた明るさが弱まった事に気づいて、彼女は顔を上げた。
微かに瞬くシンを見て、思い直す。
もし、モルダーに出会っていなければ、こうして目の前にシンがいても決して信じなかったに違いない。
夢だとしても、現実ならなおのこと、受け入れられなかったはずだ。
こんな風に、彼は私を変えていく。
それだけで充分な気がする。
私が、彼の一部をもらったということだもの…。
軽くつつくと、シンの光が揺れた。
どこか儚げな様子が、モルダーの佇まいと重なる。
幻影でかまわないから、ずっとそばにいて欲しい…。
自分の中の少女っぽい願いに、スカリーは微笑んだ。
願いがシンに対するものなのか、或いは他の誰かに対するものなのか意識しないまま。
「エミリーッ!」
飛び起きたスカリーは、それが夢だったとわかるまで、暫しの時間を要した。
救えなかった自分の娘。罪悪感と後悔が時折、こうして彼女を苦しめる。
全身を湿らす汗に増幅された息苦しさ。彼女を幾重にも締めつける鎖のようだ。
これから先も解き放たれることはないかもしれない。
また、彼女は解放されたいとも思っていなかった。この辛さが、自分とエミリーとを繋げてくれる。
自虐的だが、ある意味彼女の支えでもあった。
荒い呼吸が収まるのを待って、彼女は再びベッドに体を横たえた。
枕元のシンに目をやると、中に見える色彩がいつもより暗い。
シンは、彼女の様子に反応して色や輝きを変えたりする。
きっと心配させているのだろう。
「大丈夫よ」
スカリーの言葉で、シンの色がますます曇った。
あなたには嘘だってばれてしまうのね…。
今まで何度も繰り返してきた台詞。相棒にも、自分自身にも…。
本当に大丈夫なためしなどなかったくせに。
頼りない笑みを浮かべた彼女の胸元に滑り込むと、シンは淡い光の帯を彼女の肩口から背中に広げた。
守るように。抱きしめるように。
シンの温かさが、凍りついた心を溶かしてくれる。
喩えようのない安心感がスカリーを包み、やがて彼女は穏やかな眠りに落ちていった。
モルダーは今日、欠勤していた。
一日中彼を案じ仕事など殆ど手につかなかったスカリーは、帰宅するなり空き箱を探し始めた。
彼の状態が身体的な問題に起因するとは思えない。
ならば、精神的な何か。
かつてのオフィスが火事になった直後でも、ここまでひどくはなかった。
Xファイルを奪われた喪失感が、今になって彼を襲ったというのも考えにくい。
逆境にあればあるほど、彼の情熱は燃えさかる。
あの時も2,3日後には立ち直って、灰になった書類の復元に励んでいたではないか。
他人の職場になっても忍び込んで、屑カゴから事件の書類を探し出して来ては、勝手に捜査する。
ところが、彼にとって最優先事項であるはずのその秘密の仕事も、今は中断しているようだ。
Xファイル以上に彼に影響を与えるものなんて、スカリーには見当もつかなかった。
それだけに、あまりに彼らしくないここ数日の様子に、不安ばかりが大きくなる。
忙しなく動き回るスカリーに遠慮してか、所在なげにあたりを漂っていたシンが、自分が入れられていた箱を持ち出して来た彼女の肩にとまった。
彼女がまっすぐモルダーのアパートに向かわなかったのは、ある考えが浮かんだからだ。
このこなら彼を治せるかも…。
馬鹿げた考えだと思うが、少なくともシンは彼の興味を引くに違いないだろう。
それが、いつもの彼を取り戻すきっかけになってくれれば…。
スカリーはシンを箱の中に入れると、それを抱えて車のキーを手にした。
「…開いてるよ」
見慣れたドアをノックすると、一拍おいて中から、か細い声が聞こえてきた。
静かに部屋に入ってスカリーは、リビングに足を踏み入れた。
モルダーはカウチに横になっている。その目は虚ろで、まったく生気が感じられない。
「あなたに見せたいものがあるの」
言いながら、テーブルの上に持って来た箱を下ろす。
モルダーは“気力を振り絞って”とでもいう風に半身を起こした。
箱を開けると、薄暗い部屋のそこだけほんのり明るくなった。
両手でシンを包んで、彼の前に差し出してみせる。
「なに?」
「これよ」
「…何も持ってないじゃないか」
どうやら彼には見えないらしい。
やっぱり私、幻を見ていたの? それとも狂ってしまったの?
スカリーが絶望的な気分になった時、彼女の掌からシンがふわっと浮き上がった。
同時に、光が強くなる。それに押されて幾層もの光のリボンが解けるように広がると、中心がひときわ強い光線を放ち、パチンとはじけた。
唖然とするスカリーの目の前で、破片はそれぞれがまた小さな円形となったかと思うと、目にも止まらぬ速さで、モルダーの心臓のあたりに吸い込まれてゆく。
すべての欠片とそれらの光の軌跡が彼の胸に消えても、スカリーは動けずにいた。
わずか数秒の出来事。
何が起きたのかわからない。
さっきまでシンを乗せていた手の形もそのままに、思考は完全に止まってしまった。
「スカリー?」
彼女の意識を引き戻したのは、心配そうなモルダーの声。
視線を上げて見た彼の瞳には、あの輝きが戻っていた。
「駐車場からアパートに向かおうとしたら、空から女の子が降って来たんだ。いや多分、木に登っていたかなんかしてたんだろう。とにかく、僕の目の前に女の子が落ちて来た。黒い服を着た、オリエンタルな顔立ちの可愛らしい少女だ」
黒い服の少女?
「大きな怪我はなかったけど、あちこち擦り傷だらけだったから手当てをしてあげようと、ここに連れ帰った」
先週の金曜日の話だ。
モルダーによると、その出来事があってから彼の調子が狂い始めたらしい。
「結構遅い時間なのに何をしていたのか不思議に思って訊ねたら、仕事で荷物を届けて廻っていたって…。まあ、今日の分は終わったと言うんで、手当てを終えてお茶でも飲ませたら、家まで送ってあげるつもりだった」
荷物を届けていた、黒い服の少女…。
「…モルダー。あなた、その子になにか配達を頼まなかった?」
「え?」
“なんで知って…”
「あ、いや、“お礼に、無料でお届け物をします”とは言われたけど…」
「けど?」
「断ったんだ。形のあるものじゃないから」
あの女の子の申し出があった時に脳裏を掠めた“届け物”を、モルダーは思い出していた。
形のあるものじゃない、って?
うっかり口にした言葉に物問いたげなスカリーに気づかないふりをして、彼は話を続ける。
「ところが、お茶を入れて戻って来ると彼女は消えていた。その受取り票を残してね」
モルダーが指したテーブルの上には、小さな紙が載っていた。
“お荷物お預かりしました”
すみに黒猫のスタンプが押してある。
何を持って行かれたのかわからないんだけれど、と彼は肩をすくめた。
「それからおかしくなったんだよ。体がだるくて、なんにもやる気が起きないし、なんだか自分が自分じゃなくなったみたいで…」
スカリーがその紙を手に取ろうとすると、ひらりと床に落ちた。
拾い上げようと屈んだ時、彼女はテーブルの下にもう一枚紙があるのを見つけた。
こんな所にあっては、彼も気がつくまい。
同じ黒猫のスタンプ。しかし、文面が違う。
“お荷物、確かにお届けしました”
その下には、受取人として“スカリー”のサイン。見紛うかたなく彼女自身の筆跡で…。
私にだけ見えたきれいな光。
まぁるくて、やわらかくて、あったかい。
やさしく私を包んで、癒してくれる。
懐かしい気がしたのもあたりまえだ。
あれは、きっと…。
スカリーはモルダーの横に腰を下ろすと、じっと彼の顔を見つめた。
あなたの瞳がいつも映していたもの。
言葉はなくても分かっていたこと。
モルダーが視線の意味を問いかけるように首を傾げる。
少し子供っぽいその仕草に愛しさが込み上げて、スカリーはやさしく彼を抱きしめた。
シンが彼女にしてくれたように。
「…ところで、君の用は?」
落ち着いた口調を裏切る胸の鼓動の速さで彼女は、自分の行動に対するモルダーの動揺を知る。
彼と触れ合うたびに、スカリーの中でささやかに波立つ感情。
それは彼女だけのものではなかったのだと改めて思う。
彼女は、モルダーの背中に回した腕にきゅっと力を込めて囁いた。
「今度はあなたが直接届けて…」
私だけのXファイル。今までのどの事件よりも真実に近い…。
スカリーは、彼の中でシンがまた少し大きくなったのを感じた。
―――― どなたかに何かお届けものはありませんか? ――――
“相棒に、僕の彼女への想いを…”
End
2001/10
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