スィート・パティシエール 〜 3つの甘いお菓子な話 〜

■Cookie's Fortune■   甘味レベル:プッチンプリン



「降ってきたな」

路上教習のために一般道路に出てすぐに、空模様が怪しくなってきた。
市街地を流して少し郊外を走ろうかというところで、フロントガラスに水滴が付きだした。
灰色の雲は面積を広げ、本来なら見えるはずの夕焼けをすっかり覆ってしまった。
この分だと、教習が終わる頃には結構な降りになっているだろう。
自分の車はアパートに置いてきた。
免許停止中なのだから、あたりまえだ。

雨の中バスを乗り継いで、或いは、いつ捉まえられるかわからないタクシーで帰宅。
…うんざりだな。
ああ、うんざりといえば、わざわざ食事に出るのも億劫だ。
ことは一度に済ませてしまいたい。

「教習中に不謹慎かな。どこかで夕食を仕入れておきたいんだけど」

「いいわよ。ついでに、駐車のテストもできるし…。ほら、あの先にテイクアウトできるお店があるわ。中華料理ね。あなた、好きでしょう?」

えっ?

「なんで知ってるんだ?!」

「…そんな気がしただけよ」

“自分の言葉が腑に落ちない”って顔だぞ。

腑に落ちないのは僕も同じだ。
公道に出てから、彼女と並んで車内にいる状況に違和感がないどころか、ごく自然な居心地の良さを覚えている。
たまに僕の運転にクレームをつける彼女の口調にもなぜか、教習所のコースを回っていた時のトゲトゲしさはない。

“狭い空間で生まれる親密感”ってやつがこんなにお手軽に発生するなら、フーバービルのエレベーターの中は、男女の組み合わせを問わない恋人たちの色づいた吐息でむせ返るだろうな。

あらぬ方向へ走りかけた思考を止めて、店の駐車場に入った。
教官が指したスペースにきっちり車体を収めると、彼女をのぞき込んだ。
つんと澄ました顔。

「当然よ」

ちぇっ。


シンプルで明るい店内を、まっすぐカウンターに向かった。
おすすめを適当にみつくろってくれるよう頼む。
愛想の良いアジア系の男性店員が、平べったい麺と2種類の炒め物を手際良くパックし、今日は中国の祝日だからと、4,5個の小さな菓子入りの袋もサービスしてくれた。

赤いリボンで結わえたポリエチレンの袋の口から微かに、東洋の香辛料が混じった甘い匂いがする。

彼女はこういうものは好きかな?
嬉々として頬張る姿は想像できないけど、別れ際にあげよう。

“別れ際”

胸の奥がちくりとした。

……?


出口から小走りに車に戻り、ドアを開けて乗り込む。
運転の邪魔にならぬよう、座席の間からリアシートに紙袋を置いた。
鼻先を掠めた僕の濡れた服に、彼女は眉をひそめた。

「ひどくなってきたわね」

多少迷ったが、結局、予定通り郊外に出ることにした。
街中で渋滞に巻き込まれては、教習にならない。


30分も走ると、車道の両側に森林が広がった。
木々の梢が時々くっきり形を現すのは稲光のせいだ。
雷雲に近づいているらしかった。
進むにつれ、光と雷鳴との時差が縮まって行く。

緩やかなカーブを曲がりきった所で、耳を劈く音を伴った強烈な閃光を浴びた。
視界が真っ白になったあとの数回の瞬きで、網膜に焼きついた白が消えると、前方に赤いテールライトが浮かび上がった。

ん? 前に車なんていたか?

光の中から突然現れたかに思えたその車が、タイヤを軋ませUターンをした。
後輪が濡れた路面でスリップし、大きく車体が揺れたのがわかった。

「ああいう運転はしないでね」

「…気をつけます」

猛スピードで引き返すトーラスとすれ違うその時、車内に一組の男女が見えた。
ビデオのポーズ・ボタンで動きを止めたように、はっきりと。
息を呑んでスカリー教官の方を向けば、彼女がぽかんと口を開けていた。

「今のは…」

「君も見た?」

「…雨でよく見えなかったわ。暗かったし」

それは嘘だね。
君の目に、困惑の色がありありと浮かんでいる。

運転していたのは僕そっくりの男。
助手席には、彼女そっくりの女がいた。
いや、“そっくり”なんてもんじゃない。
僕ら“そのもの”だった。

「よそ見しないでちょうだい」

動揺を取り繕う彼女の注意ののち無言のまましばらく走っていたが、視界が悪すぎる。
雷鳴が後ろに去っても雨は激しさを増し、ワイパーも効かなくなっていた。
あまつさえ先ほどの件で集中力を失っていたので、路肩に寄せて車を停めた。
シートベルトを外す行為で、運転の意志がないことを示す。
スカリー教官は何も言わなかった。


「君はパラレルワールドの概念を知っているかい?」

雨水が滝となって流れるフロントガラスをぼんやりと眺めながら、僕が訊いた。

「……わたしは信じないわよ。この世界に平行して、少しずつ違う無数の宇宙が存在しているなんて」

予想通りの答えだよ、教官どの。

「彼らの車に気がつく直前に、大きな稲妻が走ったろう? あれが原因だと思う。雷とか竜巻は、強力な電磁波を」

「ちょっと待って」

途中で遮られて少々ムッとしたものの、きゅっと片方の眉を上げた彼女に刹那、みとれた。

「あなた、変わってるって言われない?」

言われすぎて、“常識人”とでも評されたら、自ら否定しそうなくらいだ。

「可能性の話だよ。ドッペルゲンガーでもいいけど、僕らふたり揃って、というのも考えにくい」

「で、さっきのふたりが別の次元に存在する私たちだ、っておっしゃりたいのかしら? そんなこと有り得ないわ。ただの他人の空似よ」

あのふたりの車が反対車線を走り抜けた瞬間、僕は、隣に座るひとへの想いで胸がいっぱいになった。
今日初めて会ったはずの彼女を、心から愛しいと感じたんだ。

確かに彼女を一目見て魅力的だと思ったことは事実だし、その女性と車内の密室状態にあって、邪まな期待を抱かなかったと言えば嘘になる。
でも、そうした一過性の感情とは違うことなど、いくら鈍感な僕にもわかるよ。

あれは、長い時間をかけて育った想い。
若い情熱を時が熟成させた、無私の慈しみ。
出逢ったばかりの僕らの間には無いものだ。

では、彼の意識を受け止めたのか?
容量の限度を超えて溢れ出した想いを、僕が?

“他人の空似”で、そんなものが流れ込んで来たりするもんか。
“彼”はもうひとりの僕だ。

君だって、彼らに何かを感じたんだろう?
だから僕の視線を避けて、そうやって睫を震わせるんだ。


再び沈黙が支配し始めた車内に、シートベルトを解除する金属音が響いた。
音がした横を見やると、彼女がゆっくりとこちらに顔を向けた。

今度は彼女も目を逸らさない。
挑むように強い青い光が僕の心のいちばん奥まで届いて、痛みに似た切なさを照らし出す。

不可思議な出来事に触発された感傷?

いや、違う。 “あれ”は教えてくれたんだ。
僕の運命を。
おそらくは、彼女の運命も。
今まさに手が届くところに在るそれを決して見逃すな、と。

僕らは必ずめぐり逢う。
どの場所にいても、どの時代にいても、どの次元にいても…。

それは、確信に近かった。

見つめ合う瞳。
互いの引力に引き寄せられるように、僕たちはキスをした。



激しい雨がボンネットを叩く。

舌先を絡め、口腔で聞くため息。
服越しでは満足できない僕のわがままな手が、彼女の素肌を求めてさまよう。
ブラウスとスカート、その下の僅かな布きれだけでも、環境保護が叫ばれるこの時代には過剰包装だ。

狭い助手席のシートで自由に動けないもどかしさが尚、興奮をかき立てる。
ようやく胸のボタンをはずし終えたばかりなのに、待ちくたびれた唇は、包んだレースも除けず、すでに硬くなった部分に吸いつく。
僕の頭を抱いていた彼女の腕に力がこもった。

スカートのスリットから忍び込み肌をたどる指先に伝わる熱。
逸る気持ちが脱がすのを早々に諦めさせて、スカートをたくし上げた。

ショーツを下ろし、ハイヒールを履いたままの右脚を抱え込む。
彼女の表情を楽しむ余裕なんてない。
ジーンズごとボクサーショーツを下げて、彼女の入り口を探る。
軽くのけぞっただけで彼女は、難なく僕を受け入れてくれた。

動くたびに腰に擦れる彼女のガーターベルトの刺激が、僕の衝動を高め続ける。
深い深いくちづけを繰り返して、彼女の吐息のかけらまでも奪いつくす。

だけど、足りない。
まだ足りないんだ。

雨音に溶ける君の濡れた声で、甘い水をたたえる君の海で、乾き切った僕を潤してくれ。

彼女の掠れた叫びが遠くに聞こえて、僕は柔らかな胸にくずれ落ちた。



「初対面のひとと、こんなこと…」

半分戻したシートでの彼女の呟きに、自身の大胆な行動への驚きと、少しの罪悪感を聞き取った。

そんなのを感じさせてしまうほど、僕は急ぎ過ぎたのかな?
そういえば、ロマンチックなくどき文句のひとつも言っていない。

「いや、うん…。何て誘えば良かったのかな…。ええっと、“どこかで逢ったことない?”」

あああああっ、これは、教室のドアを開けた時にかけるべき言葉じゃないか。
って、ちがーうっ! それじゃ、高校生のナンパみたいだろっっ。

「…あなたの場合、女性の口説き方にも教習が必要ね」

情けない顔をしているに違いない僕をちらっと見て、彼女が口角を上げた。

スパイスの効いたセリフがその唇の甘さを更に引き立てていること、君は知らないんだな。

運転席から手を伸ばしてブラウスのボタンをかけてやりながら、もう一度キス。

「その教習、今度の週末に予約したいんだけど」

「…急に言われても困るわ。いろいろと忙しいのよ」

ほんの数時間前のいけすかない印象はどこへやら、とりあえず文句をつけずにはいられないらしい彼女を可愛いと思う。

強気な表面の内側に彼女が隠し持つ弱さやしなやかさ。
そのすべてを早く知りたいけれど…。

「じゃあ、その次の休みで構わない。急がないよ」

僕たちはきっと、
これからずっと、
ここから始まる長い道のりを、一緒にドライブするんだから。



「あれ?」

「どうしたの?」

助手席のシートを小柄な彼女に合わせて直していると、座席裏に落ちている中華料理の袋に気づいた。

リアシートに載せたはずが、なんでまた…。

“あっ”

思わず見合わせた顔と顔。
彼女の頬が、みるみるピンクに染まる。

「…きっと、中身はグシャグシャよ」

助手席を震源地とする地震で転がり落ちた物を、平静を装った彼女が身を乗り出して拾い、ダッシュボードに置き直してくれた。
油染みが浮いた茶色い紙袋と、リボンのかかった透明な袋と…。

「あ、それは君にあげるよ。さっきの店でもらったんだ」

「これ? …お菓子?」

「中国のクッキーだよ。割ると、中に占いの紙が入ってる」

「へえ、おもしろいわね。あなたは要らないの?」

「ああ」

僕はもう見つけたからね。
僕の未来を、君の中に…。

小麦粉を焼いた生地のかわりにセクシーなタイトスカートをまとった、僕のフォーチュンクッキー。



いつのまにか雨が上がっていた。
雲の切れ間に星空が見える。

それこそ星の数ほど人間のいる中で、僕らは出逢えたんだな…。
きっかけが僕の免許停止だったのは、この際忘れた振りをしよう。


「ねえ…、次の週末でいいわ」

同じように空に目をやっていた彼女が、ぽつんと言った。

「了解」

短く応えて、僕はイグニッションキーを回した。



End




菓子職人:カリーナ・オトゥーム@軽ぃな、おつむ
2002/02

 



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