子供の夢を一杯詰め込んだ遊園地での大人の楽しみ方
■フェアリーテイル Version2■
伝えようとして果たせなかった想い。
出口を失くした僕の言葉は今も、胸の奥で乾いた音を立てている。
いつか君が、この音に耳を傾けてくれる日は来るのだろうか…。
それにしても…、
なんで、あんな提案をしてしまったんだ?
今回の任務にあたり、女性捜査官のフレアスカート着用を言い出したのはモルダーだ。
“捜査の便宜上、遊園地を楽しむカップルに相応しい服装を”との建前がすんなり受け入れられ、本音である“たまにはスカリーの可愛らしい姿を見たいから”という願いは叶えられた。
満足のゆく結果を得たはずだったが、彼は後悔していた。
スカリーが自分の隣を離れて数歩先を歩き出してからは…。
風が吹くたびにふわりと舞い上がる薄い生地のスカート。
風などなくても同じこと。
軽すぎるスカートの裾は、彼女が少し大きな歩幅を取るだけで、中へと誘うように揺れた。
うっ、い、痛い。
モルダーの健康な海綿体には、そこから献血可能ほどの血液が流れ込んできていた。
彼女に遮られて失敗に終わったものの、告白に際した気持ちの昂りが彼の堅牢なる“対スカリー・欲望制御ボックス”の箍を緩ませていたらしい。
こんなささいなことをきっかけに、それはいとも容易く外れ、箱の中身が露見する。
僕が実は、従順(←そうか?)な犬の振りをした狼だなんて、諸般の事情――身に覚えがありすぎて列挙するときりがないないので省略するが――によりその正体を隠していただけだなんて、そんなことばれたら、彼女はどう思う?
“モルダー、あなたそんな目で私を見ていたの?! 屈辱だわ。あなたの愛蔵版ビデオの女性と一緒にしないで! 男女の別なく対等の立場にある捜査官として私を見てくれないなら、パートナーなんて解消よーっ!”
見てるってば。
ちゃんと見てるけど、それとは別に捜査官じゃない君との絆も欲しくなったんだってば。
想いを打ち明けたところで、期待する成果が得られるとはモルダー自身考えていなかった。
ただ抑えているのが苦しすぎて、すべて吐き出してしまいたかった。
そのことで彼女に気まずさを感じさせないよう、これまでと変わらぬ態度で接してゆくと、僕はレクチル座β星に誓っている。
彼女が受け入れてくれなくてもいい。
同僚として僕のそばに居続けてくれるだけで、それだけでいいんだ…。
もともと猫背気味な姿勢の、前傾を深めた格好でそんな殊勝なこと言っても説得力はないので、モルダーは、“スカリーにとって信頼のおける相棒”を取り繕う必要に迫られていた。
彼は、オフィスでもしばしば起こるこの種の非常事態に備えて暗記した沈静効果を生む呪文を心の中で唱え始めた。
色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是…
…だめだ。周りに人が多くて集中できない。
「スカリー、向こうの方を回らないか?」
振り返ろうとした彼女の肩を慌てて押さえ、モルダーは彼女の全身を斜め左方向に向けさせた。
「向こうって…、人通りもほとんどないじゃない」
「だから、警備も捜査活動も手薄になりがちだろう?」
咄嗟に思いついたにしては、もっともらしさ満点の理由だ。
彼女は納得し、結果モルダーは、犬の毛皮を被り直す猶予を得られた。
無眼界乃至 無意識界…
清々しい緑の匂いに、彼女の横顔にも時々、仕事中の緊張感が薄れるのを見て取れた。
この癒し環境のせいか唱え続けた般若心経のおかげか、モルダーの一部分の緊張も解けつつある。
散策にはうってつけの、常緑樹が立ち並ぶ舗道。
しかし、なにも遊園地に来てまで散歩する物好きもいないとみえて、人影はまばらだ。
その数少ない中の3人の少年たちとすれ違ったのは、モルダーの前傾がほぼ平常時の角度に戻った時だった。
「ちぇっ。なんで閉まってんだよ」
「どうせミラーハウスなんかつまんないよ。お化け屋敷にしようぜ」
本来の目的はどうであれ、モルダーは彼の行動が正しかったと直感した。
スカリーも即座に鋭い視線を彼に返し、ふたりは先へと向かう足を速めた。
敷地奥の一角に建つミラーハウスは一般的なそれよりかなり大きかったが、窓のないログハウスといった趣の木造の外観は、シンプルすぎて遊園地全体の派手な雰囲気から浮いていた。
おまけに、道路に面した出入口の両方に張られた黄色いロープと“清掃中”の看板が違和感の上積みをしている。
わざわざ営業時間内に掃除するなど、不自然極まりない。
彼らはまず建物の周囲を捜索して不審物がないのを確認すると、それぞれ銃を手に目で合図を交わし、ロープをくぐって入口のドアを押した。
案の定、中に清掃人のいる気配はまったくなかった。
銃を収め、内部に視線を走らせる。
天井の数ヶ所に備えられた非常灯の光が上部の隙間から届くおかげで、さほど暗くは感じられなかった。
とりあえず二手に分かれて捜査を始めたものの、彼らは内部の構造に辟易した。
壁としての鏡の組み合わせ方が、複雑に入り組んだ迷路になっているのだ。
あまつさえ、対象物を幾重にも映し出す鏡自体に方向感覚を狂わせられた。
「どこまで調べた? スカリー。……スカリー?」
「ここよ、モルダー」
「…どこだよ」
妙な反響をするため、声の出所も特定しづらい。
すべての鏡が、同じサイズの同じ長方形。
まったくもって無個性な容疑者集団が、スクラムを組んで相棒捜索を阻む。
「おーい、スカリー」
モルダーは6つめの角を曲がったところで、彼女とぶつかりそうになった。
思わず避けたりしなければ、彼女の豊かな胸と接触できたのに…。
彼は自分の反射神経を苦々しく思った。
「分かれて調べるのは逆に効率的じゃないな」
ただ彼女とくっついていたい欲求が大半を占める意識野を、彼は連邦捜査官仕様の声音で覆う。
「一緒に調べて確認したら、印をつけていこう」
「どうやって? 鏡に書けるようなペンなんて持ってないわ」
「…口紅は?」
彼のアイディアの有効性を認めてスカリーの表情が冴えたが、バッグから小さな円筒を探り出した途端落胆の色を浮かべた。
「これ、お気に入りの色なのよ…」
モルダーが嬉しくなってしまうのは、こんな瞬間だ。
日頃“女性”と見られることを頑なに拒む彼女が、その象徴のような口紅が惜しいと哀しげな顔をする。
ただの仕事の相棒なら、決して見せてはもらえないだろう。
親友と言っても、それが男では怪しいものだ。
なのに、いつの頃からか彼には鑑賞の機会を与えてくれるようになった。
つまり彼女にとって自分はほんの少しだけ特別な存在なのかもしれない、と思えて彼は単純に嬉しかった。
彼の心における彼女の地位には、遠く及ばないとしても…。
我知らず頬を弛めていたモルダーを、彼女が恨めしそうに見上げた。
「あとで弁償するよ」
彼女は深いため息をついて口紅のキャップをはずし、中身を捻り出した。
一面ずつ鏡の数箇所を、わずかな音の変化も聞き逃さぬよう細心の注意を払い叩いていった。
仕切りの合わせ目にもペンライトを当て、極細の電線でも仕込まれていないか指を這わせた。
しかし、何も見つからなかった。それでも辛抱強く調べ続け、彼らはひらけた六角柱の中に出た。
他にもあった別な通路への分岐点のひとつだが、空間を挟んだ対面にチェック済みの証である数字がついているところをみると、調査の最終地点でもあるらしい。
「これが最後よ」
すっかり短くなってしまった口紅で、スカリーが鏡の端に“42”と書いた。
「取りたてて変わった様子もなかったな。鏡を外して裏を…」
モルダーは、最後の一枚に手をついた……はずだった。
「うわっ!」
鏡面は彼を支えずに、ただ受け入れた。
水のように波紋を広げて、彼の腕を肘まで呑み込んだのだ。
「モルダーッ?!」
スカリーは慌てて彼の残された方の腕を掴んだが、その時点ですでに鏡に半身を突っ込んだ状態の彼は引き戻せない。
それどころか掴んだ腕ごと彼女も、ものすごい力で引っ張られた。
抵抗の甲斐もなく、彼らは鏡の中に吸い込まれていった。
スカリーのバッグと、そのストラップに結びつけた風船だけを残して…。
「隠し扉になっていたのかしら」
「…鏡を通り抜けてしまった、って素直に認めた方が良くないか? スカリー」
「バカ言わないで。そんなこと絶対に有り得ないわ」
身を置いた空間がぐにゃりと歪んだと感じた次の瞬間、モルダーは地面に突っ伏していた。
状況を把握すべく上げた顔面は、続いてスカリーが倒れ込んで来たことにより、思い切り地面に打ちつけられた。
その痛みが現実なら、今彼らの周囲には暗闇以外何も存在しないのも現実だった。
モルダーの持っていたライトが証明した。光は照射点を見出せず、暗闇に溶けていった。
「とにかく、どこかに出口があるはずよ」
あくまで強気な姿勢を崩さず“隠し扉”を探すスカリーが、ふっとモルダーの視界から消えた。
ミラーハウスでも長時間使っていたライトのバッテリーが切れたのだ。
完全なる闇の支配。
モルダーは手探りでスカリーの腕を掴まえ、彼女に寄り添った。
ラッキー♪ たまにはこんなこともあるから、普段禁欲的でいられる。
暗闇をかさに肩なんて抱いてしまおうか、とモルダーがほくそえんだ時、突然けたたましい音がふたりの間に割って入った。
わん! わんわんっ!
スカリーの肩が、そこに触れかけたモルダーの指を弾いてビクッと跳ね上がった。
モルダーが声のした方角を向くと、何かが動いていた。暗闇に慣れてきた目をよく凝らす。
それは動物の一部分だった。ふさふさのしっぽが、嬉しそうに振り回されている。
吠え声から判断するに犬なのだろうが、闇に紛れてしまうくらい真っ黒な体なのか、はたまた透明なのか白っぽいグレーの尾以外まったく見えなかった。
その“ふさふさ”が彼らに走り寄り、足下を2,3周すると少し離れて、また吠えた。
「ついて来いってことかな…」
こいつは、どこか違う場所から入って来ているはずだ。
そこが彼らにとって、出口になる可能性は高いだろう。
突っ立っていたところで、埒は明かない。
“チャンスの前髪”…この際しっぽでも、掴まなくては…。
別なチャンスは逃してしまったモルダーが妥協してスカリーの手を取り、彼らはしっぽの先導で歩き出した。
1マイルも進んだだろうか。
鋭い刃物を立てられたように、いきなり暗闇が裂けた。
射し込む強い光。
手をかざすだけでは間に合わず、モルダーもスカリーもきつく目を瞑った。
これから見るものがメリーゴーラウンドや観覧車であることを密かに期待しつつ、ふたりは光の刺激に慣らすようゆっくりまぶたを上げた。
大概の場合において、期待は裏切られるものだ。
彼らが目にしたのは、鬱蒼とした森だった。
「…ここも遊園地の中なの?」
「ドロボーッ! 誰か捕まえてーっっ!」
スカリーの疑問の語尾を、女性の叫び声がかき消した。
逼迫したそれを聞いたしっぽは、低いうなり声を上げて走り出した。
慌てて後を追ったが、なにしろ速い。木々の間を縫うような疾走の軌跡は、掻き分けられるそばから直立を保とうとする長い草に隠されてしまう。
胴体が見えないせいもあり、彼らはあっという間にしっぽを見失った。
「優秀な番犬なんでしょうけど、ガイドとしては失格ね」
一本の樹の幹に手をついたスカリーが、乱れた息を吐き出しながら言った。
苦しげに寄せられた眉根と、舌先が濡らす唇。
呼吸に合わせて存在を誇示する胸。
いつもよりひとつ多くボタンの外されたブラウスからのぞく、その深い谷間。伝い落ちる汗。
ごっくん。
彼女に聞こえんばかりに大きく喉が鳴り、モルダーは慌ててスカリーから目を逸らした。
カムバック、平常心!
「日光浴できる場所に出してくれただけでも、感謝すべきだと思うね。…いや、そうでもないな、これじゃろくに陽も射さない」
モルダーは、張り出した枝が自分たちを覆う大木を見上げた。
何百年もの樹齢を経ていそうだと感心するうち太い枝の一本が揺れて、彼の注意を引いた。
生い茂る葉の隙間から、縞模様がのぞいている。
縞模様の、そこらへんによくいる動物の体。
しかし、くっついているのは“そこらへんによくいる動物のよくある顔”ではなかった。
「…スカリー、知ってたか? 猫って、笑うんだな」
「え?」
木の上の猫は、本当に笑っていた。
耳までもありそうな大きな口からギザギザの歯を剥き出し、目はいやらしい三日月形。
動物愛護団体でさえお世辞にも“可愛らしい”と言えないだろう笑顔を見て、スカリーは弾んだ声を上げた。
「モルダー、捕獲しましょう! 哺乳類の表情筋発達のプロセスを解明する鍵になるかも」
…ならないよ。
彼が言い返す前に、笑う猫の捕獲はかなわなくなった。
輪郭と縞が徐々にぼやけて、背景と混じり合う。みるみるうちに猫の本体は消えてしまった。
だが、あろうことかニヤけた笑いだけは残っている。
スカリーが唖然としていると、最後まで残った個性的な目と口もやがて、持ち主を追って消えた。
さすがの彼女も二の句を繋げられないでいた。
この隙に乗じてモルダーは彼の推論を述べようとしたが、これも果たせなかった。
梢を掠める何かの羽ばたきが起こした風が、樹の枝葉をうるさいほどざわめかせたせいだった。
逆光で黒い影だった“何か”は一度飛び去って旋回し、また戻って来た。
梢の間から今度はその姿がはっきりと見えた。
曲がった嘴と鋭い爪を持ち、大鷲に似ている。似てはいるが、胴体はライオンだ。
「すごいわ! 白亜紀の生き残りかしら。あなたのビッグ・ブルーの存在証明になるかも」
だから、ならないって…。
「ニヤニヤ笑いの猫に、下半身がライオンの鷲だぞ? 何か思い出さないか?」
「何かって?」
「子供の頃、読まなかった?“不思議の国のアリス”だ」
細いけもの道を辿り森を抜けると、一気に視界が開けた。
丈の長い草が風に踊る草原。どんよりとした灰色の空。
霞がかったみたいにぼやけていて遠くまでは見通せないが、暗闇と陰鬱な森から逃れてきた彼ら、特に、歩いている間中スカリーに自説を否定され続け少々うんざりしていたモルダーには、豪華なリゾート地にも見えた。
「陰気な森だったな」
「まったくだわ」
同時に噂のタネを振り返った彼らは、やはり同時に息を呑んだ。
そこには、彼らが通って来たはずの草木生い茂る森など跡形もなかった。
あるのは前方から地続きの、見渡すかぎりの“草原リゾート”だ。
それぞれのペースで体を回して見る360度の全景。
間違いない。ふたりは広大な原野の中にいた。
モルダーより2周多く遅めに回転したスカリーは、彼をうつろに見上げた。
「…きっとこれは、遊園地のアトラクションのひとつなのよ」
根拠を省いてモルダーとは別の結論を導き出した彼女の頭上を、大型の翼竜が飛んで行く。
目の前を、遥か昔に絶滅したはずのドードー鳥が横切る。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
しばらく歩くうちに、だんだん様子が違って来た。
風景こそ変わり映えのしない平原が続いていたが、森のけもの道と大差なかった道幅は広くなり、土がきちんと均されている。
明らかに“誰か”或いはここの場合、“何か”の往来のためにつくられた道路。
途中で枝分かれしていることも多くなったけれど、なにぶん不案内な土地であるし、スカリーに意見されるまでもなくモルダーも、無難に広い道を選ぶことに異存はなかった。
そうして進んで来て彼らは、また“チャンスの前髪”だか尻尾だかを発見したと思った。
細い脇道が交差する角に、今にも崩れ落ちそうな石造りの建物が一軒、ぽつんと建っていた。
何かの店舗なのだろう。正面の壁上部に、朽ちかけた木の看板が揺れている。
書かれている文字は木肌に同化して判別できない。
アメリカ合衆国の歴史よりも古そうだが、それでも彼らがここで初めて出会う“文明”だった。
誰かいるなら、この謎の世界の解明とまではいかなくても、帰る道くらいは分かるかもしれない。
重い木のドアを押し、ふたりは中に入った。
「いらっしゃい」
狭く薄暗い内部の壁面を埋める棚は、どの段もからっぽだ。
声をかけられなければ、潰れた店だと誤解するところだった。
スカリーは颯爽と奥のカウンターに近づき、スカートのポケットからバッジを取り出して見せた。
「私たちは、FBI捜捜査官よ」
そんなこと言っても意味ないんじゃないか? スカリー。相手は、…ヒツジだぞ。
モルダーの哀れみの眼差しを受けて彼女は、きまり悪そうにバッジを引っ込めた。
多分、この店の主人だろう。ウールマークのついた肩掛けにくるまり、眼鏡をかけたヒツジ。
蹄に挟んだ棒を器用に操り、背を丸めて編み物をしている。
彼女は客に一瞥をくれると毛糸を編む手…じゃなくて蹄を休め、カウンターの端にあった籐のカゴを無造作に押して寄越した。
「売りもんは、これだけだよ」
カゴには商品と思しき物が、これもまた無造作に放り込まれていた。
“EAT ME”と印刷の入ったラップに包まれた一口ケーキと縦半分に割られたきのこがそれぞれ数個ずつ。
店主はちらっとモルダーを見やり、カゴの縁に留めたカードを編み棒でとんとんと叩いた。
“目指せ、小柄!
これを食べておやゆび姫にプロポーズ。さあ、あなたも逆玉を狙ってみませんか?”
「…いや、僕らはただ、道を」
「大きくなれるのは無いの?」
モルダーは耳を疑った。
例え副長官の頭に突然毛がボーボー生えてきても、彼女がそんなことを言うわけがない。
彼の驚愕の視線からスカリーは顔を逸らしたが、わずかに見えた表情は真剣そのものだった。
「あいにく売り切れちまったんだよ。きのこの反対側半分と DRINK ME 印の缶飲料があったんだけど、極東の島国から流れてきた男の子が全部買ってくれてね。“父を超える大きな男になるまで帰らない”ってタンカ切って家出したはいいが、里心がついたんだろうねぇ…、早いとこ、でかくなりたいってさ。だけどもかわりに、ミソスープのカップにゃ乗れなくなったろうよ」
「そう…」
スカリーは、耳にした誰をも憂鬱にする沈んだ声を出した。
これまで彼女を身長の低さで散々からかったことを、モルダーはひどく悔いた。
彼女がそんなに気にしているとは思っていなかったのだ。
こんな胡散臭い話にもすがりたいほどとは…。
弱みを見せたくない相棒の前で、科学者としてのプライドをかなぐり捨ててまで、だ。
ああああ、ごめん、スカリー。
本気でバカにしてたんじゃなくて、好きな子にはつい意地悪してしまう、ってアレだったんだよぉ…。
「行きましょ、モルダー」
彼と目を合わせないまま、スカリーが促した。
肝心な事は何も聞き出せていないのに聞き込み調査を切り上げるなど、およそ普段の相棒らしくない。
しかし、自らコンプレックスを露呈してしまった彼女の心中を思いやると、ここで粘るのもモルダーには躊躇われた。
積年の懺悔の意も含めて、彼は無言で出入口に向かった。
「お嬢さん、ちょいとお待ちよ。あんたの連れに小さくなるのを食べさせたら、丁度良くなるよ!」
ピタリと足を止めたモルダーの背中を戸口まで押し出したスカリーは、店を揺るがす乱暴さでドアを閉めた。
爆破予告の件は気がかりだったが、なにも捜査官は彼らだけではない。
案外優秀な誰かがすでに解決したかもしれないし、モルダーたちがこの場で気をもんだところでどうなるものでもなかった。
とあれば、いつものモルダーならここぞとばかりに“不思議の国”の探求に務めるだろう。
しかし、スカリーが同行しているとなると話が違った。
確実に元に戻れる保証もなく、どんな危険が潜んでいるとも知れないのに自分の興味を優先させて彼女に何かあったら、後悔の大きさは先ほどの比ではないはずだ。
彼女を無事にここから出してやることが、なにより大事だった。
そんなわけで彼は、暗い森が消えた時と同様振り返るつど景色が変わってしまう現象に心を奪われつつ、出口への手がかりを見逃すまいとしていた。
彼の気持ちを知ってか知らずかスカリーは、ヒツジの店を出て以来ずっと機嫌が悪かった。
話しかけても適当な相槌を打つだけで視線は決して合わそうせず、モルダーは淋しかった。
いつだってスカリーだけが、彼の感情を支配するのだ。
このあたりの空は明るく澄み切っていて、地面の緑のグラデーションも鮮やかで美しい。
彼は、バツの悪さが原因と思われるスカリーの不機嫌も青空に感化されて晴れてくれるよう祈った。
前方左側にまた森が見えてきた。
その手前には野原との境界線を引く小川が空の青をきらきらと反射させて流れていた。
モルダーは、光る水際にしなやかな体躯の動物を見とめた。
「スカリー、見ろよ。バンビがいる」
「バンビ? バンビですって? 彼女もここに来てるの?」
ようやく僕を見てくれたと思ったら、そんな険しい顔をしなくても…。
「……そのバンビじゃなくて…。ほら、小川で水を飲んでる」
彼の指す方を見てスカリーが眉間の皺を伸ばしたのを確認して、モルダーは少し安堵した。
「道を尋ねてみよう」
スカリーは訝しげにモルダーを見返したが、彼はかまわず川辺に近づいていった。
ここではヒツジだって話せるのだから、鹿にも言葉は通じるだろう。
「やあ、可愛いバンビちゃん」
対岸からモルダーが声をかけると、仔鹿はピクリと耳を動かして鼻先を上げた。
「あたしのこと?」
「“可愛いバンビちゃん”?」
仔鹿が応えるのと同時に、横からスカリーも呟いた。腕を組んで、憮然とした表情。
“バンビ”の名に“可愛い”という形容詞がついたのが気に入らないらしい。
“バンビ”は、数年前モルダーが知り合った昆虫学者だ。
彼がひとりで行動している時に遭遇した事件を手伝ってもらった。
それを知ったスカリーは、自分をないがしろにされたと思ったのかもしれない。
バンビに対して、ライバル心を剥き出しにしていた。
当時モルダーはまだ、スカリーへの想いをはっきりとは自覚していなかったが、仕事の相棒の座をめぐる嫉妬でも、彼女が妬いてくれて嬉しかったことを今も憶えている。
しかし、嫉妬心を露わにしたスカリーは怖くもあったので、モルダーはかつてのライバルの名を余分に修飾して再び彼女の神経を逆なでした自分を呪った。
これ以上失敗したくない彼は、聞こえなかった振りをした。
「そう、君だ。ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど…」
「訊いても無駄だよ。この子は健忘症で、自分の名前さえもすぐに忘れちまうんだ」
仔鹿の後脚の影から、薄茶色のウサギがひょこっと顔を出した。
シックなこげ茶の上着に蝶ネクタイというなかなか粋な格好に、なぜか頭には麦の穂を巻きつけている。
「なによっ、それくらいちゃんと憶えてるもん! あたしは、あたしの名前は…、あ…、あれ?」
「ほーらな」
「あーん、2日ねずみのバカーッ!!」
ドカッ!
「うおっ!」
泣きながら方向転換するなり前脚でウサギの後頭部を一撃して、仔鹿は森の奥へと走り去ってしまった。
「まったくもう…。俺さまの名は“3月ウサギ”だって、何度言えばわかるんだ」
彼にとっては、蹴られるよりも自分の名前を間違われる方がよっぽど不満なようだ。
ぶつぶつ文句を言いながら、前につんのめった拍子にふっとんだ麦の穂を拾い集め適当な束にすると、また頭に結びつけた。最後に一本だけ飛び出た穂を形良く整え、モルダーたちに話しかけてきた。
「あんたら、帰り道を知りたいんだろ? パーティー券を買ってくれるんなら、教えてやってもいいぜ。
24時間、紅茶飲み放題・タルト食べ放題だ。別料金でコンパニオンも呼べる」
そう営業し、彼は川面から出ている石に跳びのった。
財布の中の紙幣がここで通用するかどうかは甚だ疑問だが、支払いについての交渉はあとにしよう。
モルダーは、散在する石を渡ってウサギがこちらの岸に来るのを待った。
危なげなく川を渡り切ると3月ウサギは、ぴたりと動きを止めた。
「…なんかイヤな臭いがするぞ」
鼻をひくつかせて辺りをきょろきょろ見回すものの、こちら側の川岸は開けていて、彼の敵が潜んでいる可能性は低いと思われた。
けれど、鋭敏な嗅覚が彼に楽観を許さない。
目を閉じて鼻だけに神経を集中させ、臭いの元を辿ってゆく。
たいして迷いもせず進んで、ぶつかったのはモルダーの膝下だった。長い髭がピンと張った。
ウサギは恐る恐る目を開けた。
「あっ、おまえ狐だな! ちきしょーっ! うまいこと人間に化けやがって。俺さまを騙して食おうったって、そうはいかないぞ! それ以上近づいてみろ、女王にいいつけてギロチンの刑にしてやるっ!」
威勢のいいセリフの割には、あとずさる後ろ足が震えている。
色々喚き散らしつつ天敵から3ヤードほどの距離まで離れると、ウサギは背を向けて一目散に駆け出した。
「…」
臆病なウサギを見送った後モルダーがちらりと横を見ると、スカリーが含み笑いをしていた。
「まあ、“狐”には違いないわね」
今度はモルダーが憮然とする番だった。
森の横を過ぎて間もなく、雑草がきれいに刈られた一帯に入った。
手入れのいい芝生を通る道沿いに、ミニチュアの家が何軒か並んでいる。
モルダーは礼を尽くして小さなドアをノックし、スカリーとともに窓を覗いていった。
ほとんどは留守だったが、最後の赤い屋根の家だけ主が在宅していた。
ウサギ小屋サイズの屋内にトカゲが一匹。なかなか贅沢な暮らしだ。
華奢なティーセットでお茶を入れていたトカゲは、窓越しにふたりと目が合うなりポットを床に落とし「蹴らないでーっ!」と叫んで、火のない暖炉に隠れてしまった。
「…蹴り上げてやりたくてもこんな小さな家、私だって入れないわ」
スカリーは首を傾けてモルダーを見た。
ヒツジの店での反省を胸にモルダーが返答に詰まっていると、彼女はつまらなそうな顔をした。
僕が「本当に?」なんて訊こうものなら、絶ーっっっ対怒るくせに…。
天気は変わらず上々。変わったのはやっぱり風景で、この辺はさしづめ“田園”といったところか。
そんなにささやかで何の役に立っているのかわからないが、ところどころに2平方フィート位の塀や低い木の柵が立っている。
とりわけ低く幅の狭い柵を隔てた池では紋章付の服を着た蛙が跳ね、アヒルとオウム、鷲の子が賑やかにボート遊びに興じていた。
池の向こうを仲良く連れ立って散歩しているのは、ライオンと一角獣。
素晴らしく現実離れしたのどかさである。
スカリーは非科学的な一切を否定しながらも、いざ遭遇したなると、時に驚くべき順応性を発揮する。
今回がいい例だ。この奇妙な世界を全面的に現実として受け入れているのかどうかはさておき、“科学的な探究心”に名を借りた彼女の好奇心は留まるところを知らず、モルダーがちょっと目を離すとすぐ、脇道にそれて探検に出てしまう。
さっきは真っ白な鎧に身を固めた騎士が主催する詩の朗読会を瞳を潤ませながら聞いていたし、その前は太っちょのそっくりさんコンビと桑の茂みで、ただくるくると回り続けるダンス。
踊りすぎて自分の目も回し、しまいにはしゃがみ込んでいた。
ともあれ、彼女はすっかりこの“不思議の国ツアー”を楽しんでいるようだ。
お気に入りの口紅に捜査のための犠牲を強いた時見せたのと同じ種類の無防備さが、てらいなく曝け出されていた。
そして今、彼女は調子っぱずれのマザーグースを口ずさんでいる。
モルダーはこの上なく幸せな気分だった。
安上がりな男だな、おい…。
道路際に立つ何枚めかの塀にさしかかったあたりで、ふいに彼女が歌うのをやめた。
モルダーが少しがっかりしたことなど、彼女は気づいた様子もない。
「このまま進んで行って、帰れるのかしら?」
「一箇所に留まっているよりは、マシなんじゃないか? 誰かが助けに来てくれるとは思えないよ」
それはそうだけど、と彼女が口ごもった時、上から声が降ってきた。
「なんで人間がいるんだ?」
見上げると、高くて薄い塀の上には色白のやたらと恰幅のいい男が座っていた。
“恰幅のいい”
実は、その表現は適切とは言いがたい。忌憚ないところで、“ずんぐりむっくり”だ。
頭の先から腰と思しき位置まで途中にくびれが入ることなく、豊満なラインを描いている。
なのに手足は短く貧弱で、おそらく彼に腕立て伏せは無理だろう。当然、懸垂も。
「おや? 君のそのスカートは、妖精の羽にそっくりだ。さては扉のやつ、こちら側の住人と間違えて入れてしまったな」
スカリーのいでたちに目を留めた彼は大げさにため息をつき、やれやれと首を振った。
いや、どこにあるかわからない首ごと、全身を振った。
「本来なら女王陛下に報告して厳しい取調べを進言するところではあるが、まあ、わたしはそれほど狭量ではないのだよ。出遭ったのがこのわたしである幸運を神に感謝したまえ、君たち」
物理的にだけでも上から誰かを見下ろすというのは優越感を煽るものらしく、ずいぶんと尊大な口調だとモルダーは思った。
口調のみならず、胸を張っているさまも実に偉そうだった。
もっともどこが胸かは、首と同じく定かではない。
スカリーの腕を組む動作でモルダーは、彼女も男の態度を不快に感じたとわかった。
「帰り道を知りたいんだろう? わたしのなぞなぞに答えられたら、教えてあげよう」
ゲーム参加の意思確認もせずに、男は問い始めた。
「塀の上から転がり落ちたら、王さまのお馬や…」
「“たまご”」
遮ったのはスカリーだ。
「あ?」
「“塀の上から転がり落ちたら、王さまのお馬や家来をみんな集めても元には戻せないもの、なーんだ?”。答えは“たまご”よ。さあ、教えてちょうだい」
癇に障るずんぐりむっくり男をやり込め、彼女は“つん”と得意そうに顎を上げている。
確かに嫌なやつだが、モルダーは男に同情した。
スカリーの複雑な転調を繰り返す歌を聴いていなかったのが、彼の不運――本来それは幸運と呼ぶべきかもしれない――だったとしか言いようがない。
辛くても耳を傾けていれば、別のなぞかけができたものを…。
彼が出そうとしたなぞなぞは、スカリーの歌っていた歌詞そのままだったのだ。
出題し終える前に正解されてしまったショックがよほど大きかったのか、男は白目をむいて何度か大きく揺れたあと、バランスを失い後ろにひっくり返った。
薄い塀の裏側に響く音。
ぐしゃっ!
ジュー。
「…彼から何かを聞き出すのは」
「王さまのお馬や家来が来ても、絶対に無理だな」
ふたりは顔を見合わせ、そそくさと目玉焼きの香り漂うその場をあとにした。
「なんだか、どうしたって出られないような気がしてきたわ…」
「いっそのこと、ここに住みついてしまおうか?」
「モルダー?! 何を言い出すの!」
普段なら鼻で笑うか呆れるかしてやり過ごしてくれたはずの、取るに足らない戯言にスカリーは真剣で、声音には怒りすら含まれていた。
楽しそうに歩く彼女、自分に対して壁を取り払った彼女を見て、無意識に近く口にした言葉。
そこに本音が紛れ込んだことをモルダー自身、気がついていなかった。
諌められて初めて自覚すると、彼女の返してきた非難が自分に対する拒絶に聞こえた。
聞いてさえもらえなかった告白への、これが明確な彼女の答えだと思った。
モルダーは傷つき、その痛みに苛立った。
「元の世界にいたって、ろくな事のあったためしがないだろ?」
投げやりに吐き捨てる一方で彼は、自分の卑怯な言い草で頬が急激に冷たくなってゆくのを感じていた。
“元の世界”のせいじゃない。
誘拐、姉の死、病気、その他もろもろ…。
彼女が受けた苦しみのすべては、僕に原因があるのに…。
どんなことがあっても彼女はモルダーを責めたりしなかったけれど、だからといって彼女に許されているとは、モルダーも思ってはいなかった。
彼は贖い切れない罪を背負った罪人で、スカリーの優しさから審判を保留されているに過ぎない。
“いずれ必ず彼女に見限られる”
その罰が下るきっかけは、現実逃避と取れるこんな一言かもしれなかった。
彼女は、現実の辛苦に涙を流しても逃げはしない自分についてきてくれたのだから…。
スカリーは俯いてしまった。
長い睫の影をぼんやりと眺めながらモルダーは、ほんの数秒前までそこにあった彼女の瞳の青さがもう無性に恋しくなった。
次に彼女が僕を見る時、その瞳には蔑みの色が浮かんでいるんだろう…。
やがてスカリーは意を決したように顔を上げた。
「モルダー、あなたの言う通りここが童話の世界なら…」
心までかじかみ無表情なモルダーをまっすぐに見つめて、彼女は続けた。
「私たちはいつまでたっても、R指定の行動を起こせないのよ」
うっすらと霧に包まれた丘の中腹にかかると、遠くから話し声が聞こえてきた。
モルダーはスカリーと繋いだ手は離さず、早足で斜面を上った。
スカリーの気が変わらぬうちにさっさと元の世界へ戻らなければ!という焦燥感と、戻ったあとへの期待が彼を急かしていた。
「……ったって聞いた?」
「どこか東の国で白バス営業してた従兄弟と間違われて、逮捕されたんでしょ? 災難だわね、チェシャ猫。でも、そんなに似てるのかしら?」
「あの笑顔といい縞模様といい、そっくりらしいわよ。体に窓がついてるかどうかの違いだけね」
「逮捕理由は?」
「なんでも、お母さんを探しにいって迷子になった“めい”って女の子を捜し回った時に、スピード違反したとか…」(copyright スタジオジブリ)
声の主は頂上の庭に咲く花たちだった。
低めのトーンは鬼ユリ、鼻にかかったセクシーなのは薔薇、すみれは甲高く、舌足らずな発音。
咲き乱れる花たちの中で会話をしているのは道路に近い固い土に咲いている数輪で、殆どは柔らかすぎる苗床をゆりかご代わりに、あちこちで寝息を立てていた。
「かわいそうに、従兄弟が自首しないから誤解が解けなくて、まだ収監されたままなのよ。なにか甘いものでも差し入れてあげようかしら?」
「そうねぇ…、ヘンゼルの下宿先のおばあさんに蜂蜜パイでも焼いてもらう?」
自分に差し入れられるわけでもないのに、モルダーは顔をしかめた。
頼むから蜂蜜はやめてくれ。そこから連想して、嫌なことを思い出してしまう…。
「蜂蜜といえば、ロビンのところのテディベアが、蜂蜜を舐めようと壷に前足を突っ込んだの。そしたら、生地が蜜を吸い込んで大変だったのよ。中の詰め物にまで染みたもんだから、その足だけ重たくなっちゃって、傾いて歩いてた」
「あら、おやつを内蔵して歩いてると思えば、それもいいんじゃない?」
ちっともよくないよ。
「まあね。あ、そういえば、このあいだ西の国の魔女が通ったでしょ? あたし、カゴの中身が見えちゃったんだけど、彼女が持ち歩いてるリンゴね、“世界一”だったの。高級品種よ。もったいないわー、全部毒リンゴに加工しようだなんて」
「あの魔女は今、王妃も兼任してるから、生活に余裕があるのよ」
「やっぱり王室関係者はいいわねぇ」
「そうとばかりも言えないわよ。ほら、バケツ持って外に立たされっぱなしの王子もいるじゃない」
「ああ、石頭…っていうか、体全部が石の王子さま?」
「石じゃなくて銅だけどね…。バケツ持ってないし。それはともかく、お城から出されたおかげで若いツバメに出逢えたんだから、本人は喜んでると思うわよ」
「その王子のツバメはどうしたの? あなたに入れ込んで通いつめてたのに、最近見かけないわね」
「あいつ? もう、しつこくって…。“あなたにはステディな関係の王子さまがいるんだから…”ってやんわり断っても、黙ってりゃわからないとか、本当はおまえのような女の子の方が好きだとか、しまいには“俺らの主人はふたりともオックスフォード大学の出じゃん? 同窓の主人を持つよしみでさー、俺らも主人たちのようにさー、な?”とか言って、あたしの雌しべをついばもうとしたのよ」
「うわっ、サイテー! 雌しべを?!」
「ま、それは我慢できたわ。花びらをぴったり閉じて未然に防いだしね…。でも、ご主人さま同士の繋がりなんて、あたしたちには関係ないじゃない?」
「引き合いに出されるだけでも腹立たしいのに、何? その含みのある言い方。ご主人さまをお○モだち(自主規制)みたいに…」
「でしょお? だから、はっきり言ってやったの。“あんたのご主人と一緒にしないで! あたしたちのご主人さまはホ○(再び自主規制)じゃなくてロリコンなのよ!”って」
「…すみれちゃん、それ、禁句…」
心では突っ込みを入れられても、とても実際に口を挟める状況ではない。
タイミングを見計らって話しかけようとしたモルダーの試みは、彼女らの息をもつかせぬ姦しさの前に何度も玉砕した。
スカリーは、はなから井戸端会議に割り込む気などなかったらしく、庭の際の見慣れない草を興味深げにしばらくいじっていた。
そうするうち手元のしおれかけた紫の花に気がついて、他の花の栄養摂取の邪魔になると判断したのだろう。それを根元から引き抜いた。
みすぼらしい花は、“ギャーッ!”と断末魔の悲鳴を上げた。
スカリー、それマンドラゴラだよ…。
「あきらめて、行こうか」
人間の形をした根っこを凝視したまま凍り付いている彼女を見かねて、モルダーが声をかけた。
「え? あ…、あっ、そうね、賢明な選択だと思うわ」
スカリーは我に返り、哀れな花を放り出して立ち上がった。
マンドラゴラの絶叫が響き渡っても、彼女のスカートが起こした風で花びらが揺れても、花たちはまるで無関心だった。
なだらかな傾斜を下り始めた異邦人たちの背後で、声高なおしゃべりはまだ続いている。
「……かしら? あたしなら、空腹で起きちゃう」
「え? 彼女、もう目覚めたって聞いたけど?」
「うん。でも、起こしてくれた王子さまがタイプじゃないって、また寝ちゃったのよ」
「ハヤネオソ沖の人魚も相当な面食いじゃない」
「あの娘、来てたみたいよ。身の上話好きの海亀が、遇ったって言ってたもの。外でイイ男見つけたからアプローチしに行くって、浮かれてたんですって。彼女曰く“網を引くたび上腕二等筋がセクシーに盛り上がる、真っ白な鉢巻きも目に眩しい漁師”だそうよ」
「わざわざこっちから行くの?」
「自分とこからじゃ、お姉さま方に止められるでしょ?」
「止めたくもなるわよ。何度め? 懲りないわねー。どうせまた他の女に取られて、泣きながら帰って来るのがオチなのに」
「見た目のいいのに限ってろくな男じゃないのにね。バーボンやらテキーラやらさんざん味見しておいて、結局お茶を選んだり」
「…誰の話よ?」
点在する低木が薄い霧に影を映す原野へと丘を下り切り、彼らはようやく騒々しさから逃れられた。
「女性同士のおしゃべりなんて、いずこも同じね…」
ため息をついたスカリーに肩を竦めてみせながら、モルダーは考えていた。
お茶を選んだ男のこともなぜか気になるけど、それより彼女たちの“ご主人さま”だ。
“ロリータコンプレックスのご主人さま”…。
彼がいなければ、この世界は生まれていない。
モルダーは足を止めて、近くに落ちていた木の枝を拾った。
その場で地面に片膝をつき、手にした枝で線を引き始めた。
いきなり突飛な行動に走る相棒には慣れているスカリーはこの程度では動じず、彼の横にしゃがんで、枝先の動きを目で追った。
彼は先に引いた数本の横線に縦の線を加えて、マス目を作っている。
「何を描いてるの?」
「スカリー、僕らが通り抜けた鏡は、何枚めだった?」
「確か…、42枚めよ」
出来上がった表にアルファベットを書き入れる手は止めず、彼は軽く頷いた。
「アリスの物語の作者、ルイス・キャロルは、なぜか“42”という数字にこだわりを持っていたんだ。作品にも、よく登場させている。そのままだったり倍数にしたり…。でも、それだけじゃ物足りなかったのか、文章の中にも隠したんだよ。アルファベット26文字に1から順に数字を割り当て、それらの数を足すと42になる言葉を使うことでね」
ローマ字の下段のマス目に数字を入れ終わり彼が隣を見ると、スカリーの眉が上がっていた。
「なに?」
「あなたの知識の幅広さには驚きだわ、と思って」
「彼とは同窓のよしみで…」
額面どおりに受け取るには眉毛の角度が鋭かったから、モルダーも言い訳がましくなってしまった。
彼女はまだ右眉を下げてくれない。
「僕は、ゲイでもロリコンでもないからな」
「…数字の話だったわね。それで?」
“そんなこと思っていない”とは言ってくれないんだな、スカリー…。
「…それで…、僕らが鏡を通り抜けた後、暗闇を案内してくれたのは“しっぽ”だ。“しっぽ”のつづりは?」
「t-a-i-l」
「その文字番号を足してみて」
モルダーが指す文字の下に書かれた数を、彼女は声に出して読みながら計算した。
「20、1、9、12…、42…」
「入口の“42”と案内役の“42”。当然、出口にもその数字が関係してくると思わないか?」
「多少強引な気もするけど、考えられなくはないわね…。でも、どうやってその“42”を探すの?」
「ここまできて、まさか立ち木の本数みたいな単純なものでもないだろう。場所を示す言葉を調べてみるべきだと思うんだけど、…まず手始めにこれを…」
モルダーは、表の右横に短い単語を綴った。
“creek”
「対応する数は、3、18、5、5、そして11、全部で42だ」
「バンビの小川?」
ひとつめで早々と“42”が見つかったことにスカリーは目を見開いたが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「通って来た所は、振り返るたびに違う風景に変わっているのよ。同じ場所には戻れないわ」
「戻る必要はない。イギリスでは“creek”は、小川じゃなくて入り江のことなんだよ。惚れっぽい人魚も、そこから外へ出たんじゃないかな」
―――“外”でイイ男見つけたから、アプローチしに行くって… ―――
「…モルダー、あなた、あのくだらない噂話をしっかり聞いていたのね」
「ためになる内容だったじゃないか。おとぎ話の人魚姫に恋したら漁業組合に就職すべきだ、って子供にアドバイスしてやれる」
さて、と彼は立ち上がって辺りを見回した。
「問題は、入り江のある方角だな」
スカリーは立つ素振りを見せず、まだ地面の表とにらめっこしている。
「スカリー?」
「…ガイドは、しっぽ以外にもいるみたい」
彼女は表と見比べながら、小石をひとつ拾い上げてモルダーに渡した。
「これに案内してもらいましょう」
「“小石”、p-e-b-b-l-e 、…42…」
スカリーは子供っぽく唇の端を上げた。
どうやら彼女はこのパズルを気に入ったようだ。
今後、彼女の報告書にはローマ字の代わりにアラビア数字が並ぶかもしれない。
ふっと息を吹きかけたあとモルダーが投げ上げた石は、急な放物線を描いて地面に落ち、彼のつま先、つまり後方に向けて跳ね返った。
「…」
ゆっくりと後ろを振り返った彼らの視界には、沖合いに大漁旗を掲げた数隻の船が浮かぶ海原が広がっていた。
入り江はすぐに見つかった。
石の転がった延長線上をまっすぐ進んでぶつかった崖の下がもう、浅く湾曲した海岸線だったのだ。
幸い崖は低く、突き出した岩の3,4個も足場にすれば苦もなく目的地に到達できそうだった。
まずモルダーが下りようとしたが、彼の下心を察知したスカリーはそれを制し、風に舞い上がらないようスカートを押さえながら、先に下りてしまった。
モルダーは内心、舌打ちをした。
ゴツゴツした岩場に砕ける波がしぶきを、崖が造る壁まで飛ばしている。
その壁に寄り添い、モルダーの身長をゆうに超える高さの円錐が立っていた。
見ようによってはジミー大西の作品に見えなくもないそれは、牡蠣の殻が積まれて出来ていた。
芸術品とは総じて繊細である。
一見頑丈そうなこの円錐もスカリーが軽く触れただけで、一気に崩れ落ちた。
「スカリー? 大丈夫か?」
「平気よ。それよりモルダー、見て…」
スカリーの視線を追って、モルダーも岩肌に目を向けた。
崩れた牡蠣殻の向こう、崖の低い位置に洞穴が口を開いていた。
どんなに勘の鈍い人間でも、この穴が無意味に現れたとは思わないだろう。
躊躇せずモルダーが、身を屈めて中に入った。
穴はスカリーも呑み込んだ時点ですぐ閉じてしまったが、真っ暗闇にはならなかった。
奥にぼうっと、四角い緑の光が浮いていたのである。
光を目指してまっすぐ進み、少し広い場所に出た。正面に木の扉がある。光源は扉の上のプレート。
それには“入口”と書かれていた。ただし裏からでないと、そうとは読めなかった。
「…入口じゃないの…」
「いや…、鏡文字だから逆の意味になるんだ。“入口”の反対、これは出口だよ」
言いながらモルダーは、取っ手のない扉を押してみた。動かない。
岩との隙間に指先を入れて引いてみる。やはり動かない。
ありとあらゆる手段、といってもスカリーがスカートの裾で撫でたり、ふたりで体当たりしたりといった程度だが、分厚い木の板はビクともしなかった。
いいかげん疲れてしまった彼らは、強情な扉を背に並んで座り込んだ。
「私たち、ここで人知れず朽ち果ててしまうのかしら…」
冗談じゃないぞ。
せっかく彼女の本音を聞けたのに、ふたりの関係をプラトニックなまま終わらせてたまるか。
こうなったら性交渉禁止区域内でも構わない。
彼女を押し倒して…。
よこしまな考えが脳裏を駆け巡り、モルダーはスカリーを盗み見た。
疲れていても珍しく弱音を吐いても、変わらず意思の強さが窺い知れる端正な横顔。
…人一倍秩序欲求の強い彼女が、そんなこと許すわけないな。
蹴りの一発や二発、下手したらエルボー・スマッシュも…。
再起不能のダメージを受けた自分の姿を想像し、モルダーの体にかすかな震えが走った。
くわばらくわばら。
彼はこの数秒間になされた思考の隠蔽工作として、普段の軽い調子でスカリーに応えた。
「おでこに切手貼って、家に郵送してやるよ」
「“不思議の国のアリス”のセリフね。ラベルは“熟女/取扱注意”にしてちょうだい」
微笑みの消し際に、スカリーはため息をついた。
「ポストでもあれば本当にそうして欲しいところだけど、郵便集配人-mail-man-だって通りそうもないわ…」
「雄ウサギ-male rabbit-なら、ここにおるがね」
驚いて顔を上げたふたりの前に立っていたのは、確かにウサギだった。
時代遅れのチョッキと蝶ネクタイを身につけ、眼鏡をかけた白いウサギ。
耳をぴんと立ててもスカリーの腰の位置にすら届かない体長だろうが、すでに立ち上がる気力もなく座ったままのふたりとは、ほぼ同じ目線になる。
彼は綺麗なピンクの瞳をしていた。
「紛れ込んでいたのは君らかい? 住人たちが噂していた。…呆れたね、いい年の大人じゃないか」
せっかちな童話のウサギとは違い、彼は威厳に満ちた穏やかさを持っていた。
「教えてくれ。これは一体、どういうことなんだ? 僕たちは鏡を通って、おとぎの国に来てしまったのか?」
たわけ者っ!
この場所でスカリーを襲おうとまで考えたくせに、すぐこれだ。
どうすれば外へ出られるか訊くのが先決だろう? モルダー。
例えばワインを持ってモーテルの部屋を訪ねて来たりとか、実はスカリーだってつつましやかなアプローチをしてきたのに、こいつときたらまったくそれに気づかない。
あげく何度こうして自らチャンスを潰してきたことか。
ほらほら、彼女が呆れて……いないな…。
おっと、いかん。つい語り部の立場を忘れてしまった。
続き続き…。
…スカリーは、喋るウサギをじーっと見ている。
で、スカリーがじーっと見ているウサギは、かけている眼鏡の縁を押し下げて、品定めするようにモルダーをじーっと見た。
「ふむ。妖精の羽もどきを身につけたそっちの彼女はともかく、なぜ君まで、と思ったが…。なるほど、扉が迎え入れたはずだ。君は“大きな子供”だから」
モルダーはいささかムッとしたが、ウサギは意に介する様子もなく先を続けようとした。
しかし…、
「いてて」
「あ、ごめんなさい」
いつのまに“じーっと見ているだけ”をやめたのか、スカリーはウサギの背にファスナーを探していたらしい。
本当は、今まで出遭った生物の背中も確かめたくてウズウズしていたに違いない。
でも、これまでの言動から推し測るに彼女のファスナー探しが“遊園地アトラクション説”の実証というよりは単に興味の発現に思えたので、モルダーは吹き出しそうになった。
こんな小さな着ぐるみに入れる人間がいたら、それこそXファイルだ。
いや、スカリーなら入れるか…。
ファスナーは見つけられなかったのにどことなく嬉しそうなスカリーを軽く睨んで、ウサギは“こほん”と咳払いをした。
「あー、さて、君の質問の答えだが…、ここは遊園地だ。子供たちの夢がいっぱい詰まっている。それらが具現化したものかもしれないし、そうではないかもしれん。どちらでもいいことだよ。君らのすぐ隣に私たちが存在することは、紛れもない事実なのだからね」
その曖昧さはまるで、合衆国政府の陰謀と一緒じゃないか。
赤と黒とは言わないが、せめて白黒つけてくれ。
不満げなモルダーをよそに、ウサギはチョッキのポケットから、鎖のついた懐中時計を取り出した。
片手で銀の蓋を器用に開けた彼は、文字盤に目を落とした。
「そろそろ時間だ。爆破の準備をしなければ…。それにしても、巻き込まれないようにと気を使ってわざわざ知らせてやったってのに、まったく人間どもときたら…」
「なんだって?! あの爆破予告は、君が?」
素っ頓狂な声を上げたモルダーの横では、相棒がぽかんと口を開けた。
大勢のFBI捜査官と警察官が駆り出されている爆破予告事件だぞ。
まさかウサギが犯人だなんて…。
「その通り。この扉も古くなりすぎてね、よく出られなくしてくれる。事故が起こる前に壊そうと思ってな。ああ、もう起きてしまったか。君らが閉じ込められた」
頭を抱えたモルダーに目もくれず、犯人は時計の龍頭を巻く。
「ま、そんなわけで“どかん”と一発やるのが手っ取り早いと考えたんだが、そうすると君らの世界に影響が出ないとも限らない。人払いのつもりだったんだよ。“清掃中”の看板もな」
ふたりのFBI捜査官は顔を見合わせた。どちらも情けない表情だ。
よりによってウサギが犯人だなんて…。
「すまんが君、ちょっと私を持ち上げてくれんか?」
犯人は男性捜査官に要望した。
モルダーはのろのろと立ち上がり、ウサギの両脇に手を入れて肩の上まで抱え上げた。
毛むくじゃらの前脚でウサギは、懐中時計の鎖を出口を示すプレートの端に掛けた。
吊り下げられた時計の蓋をパチンと閉めると、時を刻む音が大きくなった。
…爆弾を持ち歩いていたとは、つくづく物騒なウサギだな。
なるほど、これで“どかんと一発”ね…。あ…、
「新しい出口は作らないのか?」
「もちろん作るとも。迷い込んだ子供たちのために、出口がなければ困るだろう? ひととき遊んだらちゃんと戻って、彼らの在るべきそっちの世界で成長しなければ…。しかし近頃の子供は、いったん入り込んだらなかなか帰りたがらなくてね」
ウサギはモルダーの手から床に降り、長い耳を力なく垂らして首を振った。
“バクハ30ビョウクライマエ”
時計が金属的な音声で、いいかげんなカウントダウンを始めた。
弾かれたように耳を立ち上げたウサギは、モルダーたちに扉から離れるよう指示した。
「もう少し下がって。…よろしい。爆発が起きると同時に、向こう側への出口が開く。ほんのわずかな時間だ。光が見えたら、穴が閉じ始める前に一息に飛び込みたまえ」
「スカリー」
モルダーが差しのべた手を、彼女の小さな手がしっかりと掴む。
それを見たウサギが、目を細めて言った。
「ふたりに子供ができて歩けるようになったら連れて来たまえ。私たちのお茶会に招待しよう。君らの子供なら歓迎するよ。きっと、澄んだ瞳と強い心を持った子だ。多少常人離れしているかもしれんが…」
再び空間の歪みに眩暈を覚えて、地面に放り出された。
背中から倒れたモルダーはスカリーを正面で受け止めたため、今度は後頭部を打った。
目から火花が飛び散ったけど、彼女を守れたならそれでいい。
その彼女は、モルダーの犠牲的精神に報いるつもりなどさらさら無かったようで、ぱっと身を起こすと彼の体から滑り降りた。
「戻れたの?」
「どうやらね」
結局、彼らは同じ場所に帰ってきた。六角形の空間、42枚めの鏡。
置き去りにされたスカリーのバッグが転がっている。
白ウサギの目と同じ色の風船はモルダーの背面ダイブで割れてしまったのが痛ましい。
「ええっと、あの物語の出来事は、主人公が見た夢だったのよね。私たち眠っていたんだわ、きっと」
「スカリー、この期に及んでのセリフじゃないな。…これ、なんだと思う?」
モルダーは、指に挟んだ一枚の紙片を彼女に見せた。風船の残骸から覗いていたものだ。
「花札」
「見たまんまを言うなよ…。お茶会の招待状だ」
「モルダー、トランプならともかく、そんなバンビの絵柄の…」
途中まで言いかけたスカリーを、携帯電話の電子音が呼んだ。
彼女は慌てて、音源であるバッグからセルを取り出した。
「スカリーです」
モルダーに目を向けた彼女の唇が“スキナーよ”と動く。
「ああ、申し訳ありません。電波状況が悪かったようで…。え? はい」
ガサゴソと更にバッグの中から出した手帳に、なにやら書き始めた。
「…わかりました。彼にも伝えます」
電話を切った彼女が、モルダーに向き直った。
「犯人から連絡があったそうよ」
「何て?」
「本部に送信元を割り出せないファックスが送られて来て、内容は…」
彼女は、英国訛で手帳を読み上げた。
「“FBIの諸君、お役目ご苦労であった。爆破予告は嘘だよ〜ん”」
「…それだけ?」
「ええ」
…わざわざ英国訛で言うほどの内容か? そして、どこに書き留める必要が?
だけど、その得意げな顔が可愛いから、言わないでおく。
「こっちに影響は無かったとはいえ、実際に爆発はあったのにな…。で、他の捜査官は?」
「よっぽど重大な事件を抱えていない限り、局の福利厚生事業の一環としてここでリフレッシュする、…要するに遊ぶ許可を出した、って副長官が…。みんなループコースターなんかで歓声を上げているんじゃない?」
「ふーん。じゃ、僕らも自由の身か」
「あなたに、この一件をXファイルとして報告する気がなければね」
「そんなつもりはないよ。未来の僕らの子供のためにも…」
モルダーはさすらいのギャンラーさながらの見事な手さばきで、スカリーの目前にもう一度“お茶会の招待状”を出してみせた。
これはモルダーの賭けだ。
“僕らの子供”に出逢うため、するべきことはただひとつ。
彼の言外の意図を察知したスカリーの目は、モルダーの部屋の金魚のように泳ぎ始めた。
さっきからのどことなくつれない態度で、彼女が逃げ腰になっていることはモルダーにも分かっていた。
それでも、僕とめくるめくR指定ワールドを展開したいと言ってくれたあの時の、彼女の瞳を信じたい。
実際には彼女はそこまではっきりと言っていなかったが、モルダーが強気を維持するために、このくらいの思い込みは必要だった。
「スカリー、ここはもう、おとぎの国じゃない」
胸及び、ある部分を締めつける何かに急き立てられ、モルダーは上目遣いに彼女を見た。
彼女の目はクロールを止めて、モルダーの視線を受け止めた。
沈黙が転がる。
真意を透過しない青。
敗北の予感にモルダーが顔を伏せた直後、彼女のてのひらが頬に温もりをくれた。
「あなたがゲイじゃないって確かめなくちゃね」
マザーグースによると、女の子は“お砂糖とスパイスと素敵な何もかも”でできているそうだ。
それにひきかえ男の子は、“カエルとカタツムリ、子犬のしっぽやそんなもの”だぞ?
これって性差別じゃないか?
逆セクハラ疑惑はさておき、女の子に関しては単なる比喩と言い切れない。
モルダーは横たわるその証拠に見惚れていた。
小さい両手にたくし上げられたシャツから腕と頭を抜くわずかな間も惜しいくらいに。
乱れた彼の髪を撫でつけて、スカリーが微笑んだ。
妖精の羽を脱ぎ捨てて尚、儚さが香り立つ柔らかな曲線。
ほんのりと光るように白い肌。
内側はきっと“素敵な何もかも”の上澄みだけで満たされている。
彼女の極上の魂が宿るにふさわしいこの体が、犯罪者との格闘なんかに耐えなければならないと思うと、モルダーは胸が痛くなった。
あらゆる危険から守りたくても彼女はそれを望まないから、せめてもの代わりに彼はくちづけの雨を注ぐ。てゆーか、よだれ垂れてるし…。
スカリーがモルダーの髪を梳くのを止めて、しなやかな腕を彼の首に巻きつけてきた。
そのまま引き寄せられ、胸を重ねた。
肌と肌が直接触れ合う感触にモルダーは、切なさをため息に変えて解き放した。
耳の下にくちづけ、速まる彼女の脈動を味わう。
唇は時間をかけて、蜂蜜より…もとい、砂糖より甘いスカリーの顎と喉を通り小さな窪みで休んでから、ようやく胸の高みを訪れた。
彼女の蕾の可憐さといったら、どんな花の蕾もかなわない。
ましてや、どこかのおしゃべりな花々のなんて論外だ。
色味を深め、かすかに震えながら硬さを増すよう舌先で丹精したあとモルダーは、こちらも花びらみたいな、スカリーの唇に戻っていった。
深いキスでスカリーの舌を追い、右手は彼女の胸元を離れる。
平らな腹部を撫で下ろし、やがて内腿に辿りついた。
彼女の入口は胸の蕾の震えに呼応したように、もう充分潤っていた。
ぬるい水に誘われてそっと指を忍ばせると彼女は反射的に腰を浮かせ、息を呑んだ。
中指を曲げて幾度も押し戻すなめらかで熱い抵抗。
浅く速く繰り返される呼吸に、唐突な質問が混じる。
「モルダー…、わたしのコンプレックスは知っているわね?」
「え?」
「わたし、大きくなりたいのよ」
「…っ!」
背中に回されていたスカリーの手が脇腹を経て、硬いジーンズから開放されたがっているモルダー自身に触れた。
もう片方の手は、彼のウエストを彷徨い始めた。
身震いを堪える彼の耳に、かすれたささやきが届く。
「だから、これをくれない?」
「ス、スカリー、これはきのこじゃなくて…、うわっ」
彼女がその手に力を込めたので、モルダーは思わず頭を仰け反らせた。
喉元に彼女の湿ったキス。
間断なく施される部分マッサージ。
「こっこれを食べたからって、う…、君…は大きくなれないよ」
“平静を装うのに必死”という矛盾の中で、モルダーの声は上ずった。
「試してみなくちゃわからないわ」
彼女の魔法の手にかかり、脈動が強さを増してゆく。
更に窮屈になったジーンズ。
試さなくても分かるじゃないか。
大きくなるのは、君の方じゃない…。
互いの体を指先でなぞって、付け合った赤い痕を追う。
気だるさの中で寝転んだまま、そんな風にしばらく過ごしていたが、床が硬くて背中が痛い、とスカリーが上半身を起こした。
こうしてじっくり背中を観察しても、やっぱり彼女は小さいままだ。
“きのこのまるごとサラダ”は随分気に入ったようだけれど。
彼女はサラダを供するモルダーにしがみつきながら、今まで見せたことのない顔で彼の名を呼び続けていた。
濡れた瞳と声は彼を捉えて離さず、その興奮を極限まで煽った。
それは彼が経験上知っていた確かな限界だったから、まさかそのラインを超えることが有り得るとはモルダー自身予想だにしていなかった。
大きく身を捩るスカリーに合わせて上体を浮かせた時、ふいに周りの光景が彼の視界に飛び込んできた。
鏡に囲まれた空間はまるで万華鏡のように、絡み合うふたつの肢体を映し出していた。
たくさんの彼女を、同じたくさんの彼が抱いている。
一石二鳥。…それはちょっと違う。
一粒300m? もっと違うだろ。
一粒で二度おいしい…。あ、近い!
鏡の枚数分、否、鏡は互いに映しあっていたから、えーっと……。
…とにかく数え切れないほどの彼らの分だけ興奮も跳ね返り、モルダーの“ドーパミン測定器”の針は鼻中隔粘膜、キーゼルバッハ部位の血管を5,6本突き破るほどに振り切れた。
だけど、ぬくもりまでくれるのはこの生スカリーだけだ…。
彼は鼻に詰めていたティシューをそっと抜き取り、起き上がってスカリーの白い背中を強く抱きしめた。
「モルダー?」
「僕のアリス・リデルは、立派な大人の女性だ。思い切り抱きしめても、児童虐待だと訴えられたりしないだろう?」
「“アリス”って…。ゲイじゃないのは充分わかったけど、あなた本当にロリコンでもないの?」
う…。そんな疑わしげに見るなよ。
でもこれは、世界で最も愛されている少女に例えられた、彼女の照れ隠しだ。
耳まで濃い桜色になっているのが、なによりの証拠。
「…なに笑ってるのよ」
君はアリスそのものだよ。
好奇心に瞳を輝かせ、勇気を胸に真っ暗な穴へ飛び込んでゆく。
そこに待ち受ける何かが、たとえ君の信念に反するものであっても。
愛らしいふくれっ面をまた前に向けたスカリーがふっと力を抜き、モルダーに背中を預けた。
「だけど…、そう、もしも私がアリスなら…」
「ん?」
「あなたはイカレ帽子屋ね、モルダー。理解不能の自説をまくしたてては、私を混乱の渦へと叩き込むのよ」
がちょーん…。
正しく“出口”と表示されたドアを開くと、外はもう夜の帳が降りていた。
カラフルなイルミネーションが留めつけられた華やかな夜だ。
「きれいね」
「ああ…」
眩しいほどの電飾の波が揺れる。
そこを泳ぐ人々の、光に劣らず輝く笑顔をモルダーは眺めていた。
もしかしたら、今日初めてコンビを組んだ捜査官同士が恋に落ちたり、もしかしたら、昨日はグーで殴りあった恋人たちが仲直りしたり…。
散りばめられた偶然と必然。
苦しみや悲しみの砂地にさえ息づく希望。
君が僕の隣に立つ奇跡。
この世界もまた、おとぎ話に満ちている。
しかも喜ばしいことに、ここでは年齢制限を気にする必要がない。
戸口に佇んだままの彼の腕に、スカリーが手を伸ばした。
肘を滑ってきて、彼のてのひらを掴む。
「行きましょう」
この小さいけれど温かい手も
「そうだわ、モルダー」
僕を見上げる真っ青な瞳も
「私の口紅、弁償してくれるのを忘れないで」
活発に動くふっくらとした唇も、
君のすべてがそばにあると確かめながら、歩き続けたい。
「わかってる。ちゃんと買っておくよ。だから、モルダー旅行社が提供する“白雪姫ツアー”の出発口まで受け取りに来てくれ。“この世で一番美しい女性”を映し出す鏡で、天井まで埋めつくして待ってるから」
そうすれば君がそばにいてくれること、僕も客観的に(←それは無理)確認できるだろう?
それに、あの興奮はクセになる。
一瞬きょとんとした後スカリーは、声を立てて笑った。
「いいわよ。喜んで伺うわ、私のイカレ帽子屋さん」
古びたアパート、昨日までとは違う顔で彼女は42号室のドアをノックする。
「でも、改装には私の意見も取り入れてちょうだい」
「うん?」
「できれば、床も鏡がいいの」
モルダーは彼女の額に承諾のキスをした。
彼女の指先にわずかに力が入ったのを、てのひらが感じた。
その感触ごと彼が小さな手をきゅっと握り返し、ふたりはリフォームセンターに向かうべく外へと踏み出した。
End
2002/06
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