子供の夢を一杯詰め込んだ遊園地での大人の楽しみ方

■フェアリーテイル■



モルダーは後悔していた。
今回の任務にあたり、女性捜査官のフレアスカート着用を提案したのは彼だ。
“捜査の便宜上、遊園地を楽しむカップルに相応しい服装を”との建前がすんなり受け入れられ、彼の本音である“たまにはスカリーの可愛らしい姿を見たいから”という願いは叶えられた。
満足できる結果を得たはずだった。
少なくとも、彼女が自分の隣を離れて数歩先を歩き出すまでは…。

風が吹くたびにふわりと舞い上がる薄い生地のスカート。
風などなくても同じこと。
軽すぎるスカートの裾は、彼女が少し大きな歩幅を取るだけで、中へと誘うように揺れた。
そして、彼は気づいてしまった。
健康な海綿体に血液を集中させる現象を伴い歩く相棒を、周りの男たちが注視する。
着ぐるみの動物までもが、子供に風船を配る手を止めて彼女を見ている。

…なんで、あんな提案をしてしまったんだ?

赤の他人に、彼女の魅力的な脚を鑑賞させてやる義務はない。
というより、彼女を他の男の視線に晒したくない。

「スカリー、向こうの方を回らないか?」

振り向いた彼女は、モルダーが指す方向に目をやって眉をひそめた。

「向こうって…、人通りもほとんどないじゃない」

「だから、警備も捜査活動も手薄になりがちだろう?」

咄嗟に思いついたにしては、説得力のある理由だ。
彼女は納得し、結果、モルダーはまんまと欲求不満の男たちを失望させるのに成功した。


清々しい緑の匂いに、彼女の横顔にも時々、仕事中の緊張感が薄れるのを見て取れた。
散策にはうってつけの、常緑樹が立ち並ぶ舗道。
しかし、なにも遊園地に来てまで散歩する物好きもいないとみえて、人影はまばらだ。
その数少ない中の3人の少年たちとすれ違ったのは、スカリーの赤い髪に落ちた一枚の葉を払おうと、モルダーが手を伸ばした時だった。

「ちぇっ。なんで閉まってんだよ」

「どうせミラーハウスなんかつまんないよ。お化け屋敷にしようぜ」

本来の目的はどうであれ、モルダーは彼の行動が正しかったと直感した。
スカリーも即座に鋭い視線を彼に返し、ふたりは先へと向かう足を速めた。


敷地奥の一角に建つミラーハウスは一般的なそれよりかなり大きかったが、窓のないログハウスといった趣の木造の外観は、シンプルすぎて遊園地全体の派手な雰囲気から 浮いていた。
おまけに、道路に面した出入口の両方に張られた黄色いロープと“清掃中”の看板が、違和感の上積みをしている。
わざわざ営業時間内に掃除するなど、不自然極まりない。
彼らはまず建物の周囲を捜索して不審物がないのを確認すると、それぞれ銃を手に目で合図を交わし、ロープをくぐって入口のドアを押した。

案の定、中に清掃人のいる気配はない。清掃人のみならず、人間の気配はまったくなかった。
銃を収め、内部に視線を走らせる。
天井の数ヶ所に備えられた非常灯の光が上部の隙間から届くおかげで、さほど暗くは感じられなかった。

とりあえず二手に分かれて捜査を始めたものの、彼らは内部の構造に辟易した。
壁としての鏡の組み合わせ方が、複雑に入り組んだ迷路になっているのだ。
あまつさえ、対象物を幾重にも映し出す鏡自体に方向感覚を狂わせられた。

「どこまで調べた? スカリー。……スカリー?」

「ここよ、モルダー」

「…どこだよ」

妙な反響をするため、声の出所も特定しづらい。
モルダーは6つめの角を曲がったところで、あやうくスカリーとぶつかりそうになった。

「別々に調べるのは逆に効率的じゃないな」

すべての鏡が、同じサイズの同じ長方形。
まったくもって無個性な容疑者集団である。

「一緒に調べて確認したら、印をつけていこう」

「どうやって? 鏡に書けるようなペンなんて持ってないわ」

「…口紅は?」

彼のアイディアの有効性を認めてスカリーの表情が冴えたが、バッグから小さな円筒を探り出した途端、落胆の色を浮かべた。

「これ、お気に入りの色なのよ…」

モルダーが嬉しくなってしまうのは、こんな瞬間だ。
日頃“女性”と見られることを頑なに拒む彼女が、その象徴のような口紅が惜しいと哀しげな顔をする。
ただの仕事の相棒なら、決して見せてはもらえないだろう。
親友と言っても、それが男では怪しいものだ。
なのに、いつの頃からか彼には鑑賞の機会を与えてくれるようになった。
つまり彼女にとって自分はほんの少しだけ特別な存在なのかもしれない、と思えて彼は単純に嬉しかった。彼の心における彼女の地位には、遠く及ばないとしても…。
我知らず頬を弛めていたモルダーを、彼女が恨めしそうに見上げた。

「あとで弁償するよ」

彼女は深いため息をついて口紅のキャップをはずし、中身を捻り出した。


一面ずつ鏡の数箇所を、わずかな音の変化も聞き逃さぬよう細心の注意を払い叩いていった。
仕切りの合わせ目にもペンライトを当て、極細の電線でも仕込まれていないか指を這わせた。
しかし、何も見つからなかった。それでも辛抱強く調べ続け、彼らはひらけた六角柱の中に出た。
他にもあった別な通路への分岐点のひとつだが、空間を挟んだ対面にチェック済みの証である数字がついているところをみると、調査の最終地点でもあるらしい。

「これが最後よ」

すっかり短くなってしまった口紅で、スカリーが鏡の端に“42”と書いた。

「取りたてて変わった様子もなかったな。鏡を外して裏を…」

モルダーは、最後の一枚に手をついた……はずだった。

「うわっ!」

鏡面は彼を支えずに、ただ受け入れた。
水のように波紋を広げて、彼の腕を肘まで呑み込んだのだ。

「モルダーッ?!」

スカリーは慌てて彼の残された方の腕を掴んだが、その時点ですでに鏡に半身を突っ込んだ状態の彼は引き戻せない。
それどころか掴んだ腕ごと彼女も、ものすごい力で引っ張られた。
抵抗の甲斐もなく、彼らは鏡の中に吸い込まれていった。
スカリーのバッグと、そのストラップに結びつけた風船だけを残して…。







「隠し扉になっていたのかしら」

「…鏡を通り抜けてしまった、って素直に認めた方が良くないか? スカリー」

「バカ言わないで。そんなこと絶対に有り得ないわ」

身を置いた空間がぐにゃりと歪んだと感じた次の瞬間、モルダーは地面に突っ伏していた。
状況を把握すべく上げた顔面は、続いてスカリーが倒れ込んで来たことにより、思い切り地面に打ちつけられた。
その痛みが現実なら、今彼らの周囲には暗闇以外何も存在しないのも現実だった。
モルダーの持っていたライトが証明した。光は照射点を見出せず、暗闇に溶けていった。

「とにかく、どこかに出口があるはずよ」

あくまで強気な姿勢を崩さず“隠し扉”を探すスカリーが、ふっとモルダーの視界から消えた。
ミラーハウスでも長時間使っていたライトのバッテリーが切れたのだ。
完全なる闇の支配。
モルダーは手探りでスカリーの腕を掴まえ、彼女に寄り添った。

隠し部屋でも鏡の裏側でも、もし、ここに爆薬が仕掛けられているとしたら…。

嫌な考えが頭をよぎり、沈黙が生まれる。
だが数秒後、突然けたたましい音が割って入った。

わん! わんわんっ!

スカリーの肩がビクッと跳ね上がった。
モルダーが声のした方角を向くと、何かが動いていた。暗闇に慣れてきた目をよく凝らす。
それは動物の一部分だった。ふさふさのしっぽが、嬉しそうに振り回されている。
吠え声から判断するに犬なのだろうが、闇に紛れてしまうくらい真っ黒な体なのか、はたまた透明なのか、白っぽいグレーの尾以外まったく見えなかった。

その“ふさふさ”が彼らに走り寄り、足下を2,3周すると少し離れて、また吠えた。

「ついて来いってことかな…」

“これ”は、どこか違う場所から入って来ているはずだ。
そこが彼らにとって、出口になる可能性は高いだろう。
怯えて立ちすくんでいたところで、埒は明かない。
“チャンスの前髪”…この際しっぽでも、掴まなくては…。

はぐれてしまわぬよう、どちらからともなく手を繋いだ彼らは、しっぽの先導で歩き出した。



1マイルも進んだだろうか。
鋭い刃物を立てられたように、いきなり暗闇が裂けた。
射し込む強い光。
手をかざすだけでは間に合わず、モルダーもスカリーもきつく目を瞑った。
これから見るものがメリーゴーランドや観覧車であることを密かに期待しつつ、ふたりは光の刺激に慣らすようゆっくりまぶたを上げた。
大概の場合において、期待は裏切られるものだ。
彼らが目にしたのは、鬱蒼とした森だった。

「…ここも遊園地の中なの?」

「ドロボーッ! 誰か捕まえてーっっ!」

スカリーの疑問の語尾を、女性の叫び声がかき消した。
逼迫したそれを聞いたしっぽは、低いうなり声を上げて走り出した。
慌てて後を追ったが、なにしろ速い。木々の間を縫うような疾走の軌跡は、掻き分けられるそばから直立を保とうとする長い草に隠されてしまう。
胴体が見えないせいもあり、彼らはあっという間にしっぽを見失った。

「優秀な番犬なんでしょうけど、ガイドとしては失格ね」

一本の樹の幹に手をついたスカリーが、乱れた息を吐き出しながら言った。

「日光浴できる場所に出してくれただけでも、感謝すべきだと思うね。…いや、そうでもないな、これじゃろくに陽も射さない」

モルダーは、張り出した枝が自分たちを覆う大木を見上げた。
何百年もの樹齢を経ていそうだと感心するうち太い枝の一本が揺れて、彼の注意を引いた。
生い茂る葉の隙間から、縞模様がのぞいている。
縞模様の、そこらへんによくいる動物の体。
しかし、くっついているのは“そこらへんによくいる動物のよくある顔”ではなかった。

「…スカリー、知ってたか? 猫って、笑うんだな」

「え?」

木の上の猫は、本当に笑っていた。
耳までもありそうな大きな口からギザギザの歯を剥き出し、目はいやらしい三日月形。
動物愛護団体でさえお世辞にも“可愛らしい”と言えないだろう笑顔を見て、スカリーは弾んだ声を上げた。

「モルダー、捕獲しましょう! 哺乳類の表情筋発達のプロセスを解明する鍵になるかも」

…ならないよ。

彼が言い返す前に、笑う猫の捕獲はかなわなくなった。
輪郭と縞が徐々にぼやけて、背景と混じり合う。みるみるうちに猫の本体は消えてしまった。
だが、あろうことかニヤけた笑いだけは残っている。
スカリーが唖然としていると、最後まで残った個性的な目と口もやがて、持ち主を追って消えた。
さすがの彼女も二の句を繋げられないでいた。
この隙に乗じてモルダーは彼の推論を述べようとしたが、これも果たせなかった。
梢を掠める何かの羽ばたきが起こした風が、樹の枝葉をうるさいほどざわめかせたせいだった。
逆光で黒い影だった“何か”は一度飛び去って旋回し、また戻って来た。
曲がった嘴と鋭い爪を持ち、大鷲に似ている。似てはいるが、胴体はライオンだ。

「すごいわ! 白亜紀の生き残りかしら。あなたのビッグ・ブルーの存在証明になるかも」

だから、ならないって…。

「ニヤニヤ笑いの猫に、下半身がライオンの鷲だぞ? 何か思い出さないか?」

「何かって?」

「子供の頃、読まなかった?“不思議の国のアリス”だ」



細いけもの道を辿り森を抜けると、一気に視界が開けた。
丈の長い草が風に踊る草原。どんよりとした灰色の空。
霞がかったみたいにぼやけていて遠くまでは見通せないが、暗闇と陰鬱な森から逃れてきた彼ら、特に、歩いている間中スカリーに自説を否定され続け少々うんざりしていたモルダーには、豪華なリゾート地にも見えた。

「まったく陰気な森だったな」

「ほんとにね」

同時に噂のタネを振り返った彼らは、やはり同時に息を呑んだ。
そこには、彼らが通って来たはずの草木生い茂る森など跡形もなかった。
あるのは前方から地続きの、見渡すかぎりの“草原リゾート”だ。
それぞれのペースで体を回して見る360度の全景。
間違いない。ふたりは広大な原野の中にいた。
モルダーより2周多く遅めに回転したスカリーは、彼を見上げた。

「…きっとこれは、遊園地のアトラクションのひとつなのよ」

根拠を省いてモルダーとは別の結論を導き出した彼女の頭上を、大型の翼竜が飛んで行く。
目の前を、遥か昔に絶滅したはずのドードー鳥が横切る。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。



しばらく歩くうちに、だんだん様子が違って来た。
風景こそ変わり映えのしない平原が続いていたが、森のけもの道と大差なかった道幅は広くなり、土がきちんと均されている。
明らかに“誰か”或いはここの場合、“何か”の往来のためにつくられた道路。
途中で枝分かれしていることも多くなったけれど、なにぶん不案内な土地であるし、スカリーに意見されるまでもなくモルダーも、無難に広い道を選ぶことに異存はなかった。
そうして進んで来て彼らは、また“チャンスの前髪”だか尻尾だかを発見したと思った。
細い脇道が交差する角に、今にも崩れ落ちそうな石造りの建物が一軒、ぽつんと建っていた。
何かの店舗なのだろう。正面の壁上部に、朽ちかけた木の看板が揺れている。
書かれている文字は木肌に同化して判別できない。
アメリカ合衆国の歴史よりも古そうだが、それでも彼らがここで初めて出会う“文明”だった。
誰かいるなら、この謎の世界の解明とまではいかなくても、帰る道くらいは分かるかもしれない。
重い木のドアを押し、ふたりは中に入った。

「いらっしゃい」

狭く薄暗い内部の壁面を埋める棚は、どの段もからっぽだ。
声をかけられなければ、潰れた店だと誤解するところだった。
スカリーは颯爽と奥のカウンターに近づき、スカートのポケットからバッジを取り出して見せた。

「私たちは、FBI捜捜査官よ」

そんなこと言っても意味ないんじゃないか? スカリー。相手は、…ヒツジだぞ。

モルダーの哀れみの眼差しを受けて彼女は、きまり悪そうにバッジを引っ込めた。
多分、この店の主人だろう。ウールマークのついた肩掛けにくるまり、眼鏡をかけたヒツジ。
背を丸めて編み物をしている。
人間に例えるなら、“数十年前のニューイングランド地方のおばあさん”といった風情だ。
彼女は客に一瞥をくれると毛糸を編む手を休め、カウンターの端にあった籐のカゴを無造作に押して寄越した。

「売りもんは、これだけだよ」

カゴには商品と思しき物が、これもまた無造作に放り込まれていた。
“EAT ME”と印刷の入ったラップに包まれた一口ケーキと縦半分に割られたきのこがそれぞれ数個ずつ。
店主はちらっとモルダーを見やり、カゴの縁に留めたカードを編み棒でとんとんと叩いた。

“目指せ、小柄!
 これを食べておやゆび姫にプロポーズ。さあ、あなたも逆玉を狙ってみませんか?”

「…いや、僕らはただ、道を」

「大きくなれるのは無いの?」

モルダーは耳を疑った。例え太陽が西から昇っても、彼女がそんなことを言うわけがない。
彼の驚愕の視線からスカリーは顔を逸らしたが、わずかに見えた表情は真剣そのものだった。

「あいにく売り切れちまったんだよ。 きのこの反対側半分と DRINK ME 印の缶飲料があったんだけど、極東の島国から流れてきた男の子が全部買ってくれてね。“父を超える大きな男になるまで帰らない”ってタンカ切って家出したはいいが、里心がついたんだろうねぇ…、早いとこ、でかくなりたいってさ。だけどもかわりに、ミソスープのカップにゃ乗れなくなったろうよ」

「そう…」

スカリーは、耳にした誰をも憂鬱にする沈んだ声を出した。
これまで彼女を身長の低さで散々からかったことを、モルダーはひどく悔いた。
彼女がそんなに気にしているとは思っていなかったのだ。
こんな胡散臭い話にもすがりたいほどとは…。
弱みを見せたくない相棒の前で、科学者としてのプライドをかなぐり捨ててまで、だ。

「行きましょ、モルダー」

彼と目を合わせないまま、スカリーが促した。
肝心な事は何も聞き出せていないのに聞き込み調査を切り上げるなど、およそ普段の相棒らしくない。
しかし、自らコンプレックスを露呈してしまった彼女の気まずさを思いやると、ここで粘るのもモルダーには躊躇われた。積年の懺悔の意も含めて、彼は無言で出入口に向かった。

「お嬢さん、ちょいとお待ちよ。あんたの連れに小さくなるのを食べさせたら、丁度良くなるよ!」

モルダーの後ろをついて来たスカリーは、店を揺るがす乱暴さでドアを閉めた。



爆破予告の件は気がかりだったが、捜査官は彼らだけではない。
案外優秀な誰かがすでに解決したかもしれないし、モルダーたちがこの場で気をもんだところでどうなるものでもなかった。とあれば、いつものモルダーならここぞとばかりに“不思議の国”の探求に務めるだろう。
しかし、スカリーが同行しているとなると話が違った。
確実に元に戻れる保証もなく、どんな危険が潜んでいるとも知れないのに自分の興味を優先させて彼女に何かあったら、後悔の大きさは先ほどの比ではないはずだ。
彼女を無事にここから出してやることが、なにより大事だった。
そんなわけで彼は、暗い森が消えた時と同様振り返るつど景色が変わってしまう現象に心を奪われつつ、出口への手がかりを見逃すまいとしていた。
彼の気持ちを知ってか知らずかスカリーは、ヒツジの店を出て以来ずっと機嫌が悪かった。
話しかけても適当な相槌を打つだけで視線は決して合わそうせず、モルダーはなんだか淋しくなった。
このあたりの空は明るく澄み切っていて、地面の緑のグラデーションも鮮やかで美しい。
彼は、バツの悪さが原因と思われるスカリーの不機嫌も青空に感化されて晴れてくれるよう祈った。

前方左側にまた森が見えてきた。
その手前には野原との境界線を引く小川が、空の青をきらきらと反射させて流れていた。
モルダーは、光る水際にしなやかな体躯の動物を見とめた。

「スカリー、見ろよ。バンビがいる」

「バンビ? バンビですって? 彼女もここに来てるの?」

ようやく僕を見てくれたと思ったら、そんな険しい顔をしなくても…。

「……そのバンビじゃなくて…。ほら、小川で水を飲んでる」

彼の指す方を見てスカリーが眉間の皺を伸ばしたのを確認して、モルダーは少し安堵した。

「道を尋ねてみよう」

スカリーは訝しげにモルダーを見返したが、彼はかまわず川辺に近づいていった。
ここではヒツジだって話せるのだから、鹿にも言葉は通じるだろう。

「やあ、可愛いバンビちゃん」

対岸からモルダーが声をかけると、仔鹿はピクリと耳を動かして鼻先を上げた。

「あたしのこと?」

「“可愛いバンビちゃん”?」

仔鹿が応えるのと同時に、横からスカリーも呟いた。腕を組んで、憮然とした表情。
“バンビ”の名に“可愛い”という形容詞がついたのが気に入らないらしい。
“バンビ”は、数年前モルダーが知り合った昆虫学者だ。
彼がひとりで行動している時に遭遇した事件を手伝ってもらった。
それを知ったスカリーは、自分がないがしろにされたと思ったのかもしれない。
バンビに対して、ライバル心を剥き出しにしていた。
当時モルダーはまだ、スカリーへの想いをはっきりとは自覚していなかったが、仕事の相棒の座をめぐる嫉妬でも、彼女が妬いてくれて嬉しかったことを今も憶えている。
バンビに好意を抱くも恋愛関係には至らずじまいだった、とどのつまり振られた、という普通なら心の傷になりそうな事実さえ忘れていたのに。
しかし、嫉妬心を露わにしたスカリーは怖くもあったので、モルダーはかつてのライバルの名を余分に修飾して再び彼女の神経を逆なでした自分を呪った。
これ以上失敗したくない彼は、聞こえなかった振りをした。

「そう、君だ。ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど…」

「訊いても無駄だよ。この子は健忘症で、自分の名前さえもすぐに忘れちまうんだ」

仔鹿の後脚の影から、薄茶色のウサギがひょこっと顔を出した。
シックなこげ茶の上着に蝶ネクタイというなかなか粋な格好に、なぜか頭には麦の穂を巻きつけている。

「なによっ、それくらいちゃんと憶えてるもん! あたしは、あたしの名前は…、あ…、あれ?」

「ほーらな」

「あーん、14日ねずみのバカーッ!!」

ドカッ!

「うおっ!」

泣きながら方向転換するなり前脚でウサギの後頭部を一撃して、仔鹿は森の奥へと走り去ってしまった。

「まったくもう…。俺さまの名は“3月ウサギ”だって、何度言えばわかるんだ」

彼にとっては、蹴られるよりも自分の名前を間違われる方がよっぽど不満なようだ。
ぶつぶつ文句を言いながら、前につんのめった拍子にふっとんだ麦の穂を拾い集め適当な束にすると、また頭に結びつけた。最後に一本だけ飛び出た穂を形良く整え、モルダーたちに話しかけてきた。

「あんたら、帰り道を知りたいんだろ? パーティー券を買ってくれるんなら、教えてやってもいいぜ。24時間、紅茶飲み放題・タルト食べ放題だ」

そう営業し、彼は川面から出ている石に跳びのった。
財布の中の紙幣がここで通用するかどうかは甚だ疑問だが、支払いについての交渉はあとにしよう。
モルダーは、散在する石を渡ってウサギがこちらの岸に来るのを待った。
危なげなく川を渡り切ると3月ウサギは、ぴたりと動きを止めた。

「…なんかイヤな臭いがするぞ」

鼻をひくつかせて辺りをきょろきょろ見回すものの、こちら側の川岸は開けていて、彼の敵が潜んでいる可能性は低いと思われた。けれど、鋭敏な嗅覚が彼に楽観を許さない。
目を閉じて鼻だけに神経を集中させ、臭いの元を辿ってゆく。
たいして迷いもせず進んで、ぶつかったのはモルダーの膝下だった。長い髭がピンと張った。
ウサギは恐る恐る目を開けた。

「あっ、おまえ狐だな! ちきしょーっ! うまいこと人間に化けやがって。俺さまを騙して食おうったって、そうはいかないぞ! それ以上近づいてみろ、女王にいいつけてギロチンの刑にしてやるっ!」

威勢のいいセリフの割には、あとずさる後ろ足が震えている。
色々喚き散らしつつ天敵から3ヤードほどの距離まで離れると、ウサギは背を向けて一目散に駆け出した。

「…」

臆病なウサギを見送った後モルダーがちらりと横を見ると、スカリーが含み笑いをしていた。

「まあ、“狐”には違いないわね」

今度はモルダーが憮然とする番だった。



森の横を過ぎて間もなく、雑草がきれいに刈られた一帯に入った。
手入れのいい芝生を通る道沿いに、ミニチュアの家が何軒か並んでいる。
モルダーは礼を尽くして小さなドアをノックし、スカリーとともに窓を覗いていった。
ほとんどは留守だったが、最後の赤い屋根の家だけ主が在宅していた。
ウサギ小屋サイズの屋内にトカゲが一匹。なかなか贅沢な暮らしだ。
華奢なティーセットでお茶を入れていたトカゲは、窓越しにふたりと目が合うなりポットを床に落とし「蹴らないでーっ!」と叫んで、火のない暖炉に隠れてしまった。

「…蹴り上げてやりたくてもこんな小さな家、私だって入れないわ」

スカリーは首を傾けてモルダーを見た。
ヒツジの店での反省を胸にモルダーが返答に詰まっていると、彼女はつまらなそうな顔をした。
心理学ごときでは到底語れないほどに、女心は複雑だ…。



天気は変わらず上々。変わったのはやっぱり風景で、この辺はさしづめ“田園”といったところか。
そんなにささやかで何の役に立っているのかわからないが、ところどころに2平方フィート位の塀や低い木の柵が立っている。
とりわけ低く幅の狭い柵を隔てた池では紋章付の服を着た蛙が跳ね、アヒルとオウム、鷲の子が賑やかにボート遊びに興じていた。
池の向こうを仲良く連れ立って散歩しているのは、ライオンと一角獣。
素晴らしく現実離れしたのどかさである。

スカリーは非科学的な一切を否定しながらも、いざ遭遇したなると、時に驚くべき順応性を発揮する。
今回がいい例だ。この奇妙な世界を全面的に現実として受け入れているのかどうかはさておき、“科学的な探究心”に名を借りた彼女の好奇心は留まるところを知らず、モルダーがちょっと目を離すとすぐ、脇道にそれて探検に出てしまう。
さっきは、駒が自分で歩いて勝手に進めるチェスの試合観戦。
その前は彼女の咳が聞こえたと思ったら、体長3インチはあるイモムシが吸っている水タバコで咽ていた。
もちろん、チェス盤の周りに電源がないか確かめるとか、水タバコの匂いの成分についてモルダーに講義するとか、自分の縄張りの守備も怠りない。
なんにしても、彼女はすっかり“不思議の国ツアー”を楽しんでいるようだ。
お気に入りの口紅に捜査のための犠牲を強いた時見せたのと同じ種類の無防備さが、てらいなく曝け出されていた。
モルダーはこの上なく幸せな気分だった。

彼女は今、調子っぱずれのマザーグースを口ずさんでいる。


道路際に立つ何枚めかの塀にさしかかったあたりで、ふいに彼女が歌うのをやめた。
モルダーが少しがっかりしたことなど、彼女は気づいた様子もない。

「このまま進んで行って、帰れるのかしら?」

「一箇所に留まっているよりは、マシなんじゃないか? 誰かが助けに来てくれるとは思えないよ」

それはそうだけど、と彼女が口ごもった時、上から声が降ってきた。

「なんで人間がいるんだ?」

見上げると、高くて薄い塀の上には色白のやたらと恰幅のいい男が座っていた。

“恰幅のいい”

実は、その表現は適切とは言いがたい。忌憚ないところで、“ずんぐりむっくり”だ。
頭の先から腰と思しき位置まで途中にくびれが入ることなく、豊満なラインを描いている。
なのに手足は短く貧弱で、おそらく彼に腕立て伏せは無理だろう。

「おや? 君のそのスカートは、妖精の羽にそっくりだ。さては扉のやつ、こちら側の住人と間違えて入れてしまったな」

スカリーのいでたちに目を留めた彼は大げさにため息をつき、やれやれと首を振った。
いや、どこにあるかわからない首ごと、全身を振った。

「本来なら女王陛下に報告して厳しい取調べを進言するところではあるが、まあ、わたしはそれほど狭量ではないのだよ。出遭ったのがこのわたしである幸運を神に感謝したまえ、君たち」

物理的にだけでも上から誰かを見下ろすというのは優越感を煽るものらしく、ずいぶんと尊大な口調だとモルダーは思った。
口調のみならず、胸を張っているさまも実に偉そうだった。
もっともどこが胸かは、首と同じく定かではない。
スカリーも男の態度を不快に感じた、と彼女の腕を組む動作でモルダーにはわかった。

「帰り道を知りたいんだろう? わたしのなぞなぞに答えられたら、教えてあげよう」

ゲーム参加の意思確認もせずに、男は問い始めた。

「塀の上から転がり落ちたら、王さまのお馬や…」

「“たまご”」

遮ったのはスカリーだ。

「あ?」

「“塀の上から転がり落ちたら、王さまのお馬や家来をみんな集めても元には戻せないもの、なーんだ?”。答えは“たまご”よ。さあ、教えてちょうだい」

癇に障るずんぐりむっくり男をやり込め、彼女は“つん”と得意げに顎を上げている。
確かに嫌なやつだが、モルダーは男に同情した。
スカリーの転調だらけにアレンジされた歌を聴いていなかったのが、彼の不運だったとしか言いようがない。でなければ、別のなぞかけができたものを…。
彼が出そうとしたなぞなぞは、スカリーが歌っていた歌詞そのままだったのだ。

出題し終える前に正解されてしまったショックがよほど大きかったのか、男は白目をむいて何度か大きく揺れたあと、バランスを失い後ろにひっくり返った。
薄い塀の裏側に響く音。

ぐしゃっ!

「…彼から何かを聞き出すのは」

「王さまのお馬や家来が来ても、絶対に無理だな」

ふたりは顔を見合わせ、そそくさとその場をあとにした。



「なんだか、どうしたって出られないような気がしてきたわ…」

「いっそのこと、ここに住みついてしまおうか?」

「モルダー?! 何を言い出すの!」

普段なら鼻で笑うか呆れるかしてやり過ごしてくれたはずの、取るに足らない戯言にスカリーは真剣で、声音には怒りすら含まれていた。
楽しそうに歩く彼女、自分に対して壁を取り払った彼女を見て、無意識に近く口にした言葉。
そこに本音が紛れ込んだことをモルダー自身、気がついていなかった。
諌められて初めて自覚すると、彼女の返してきた非難が自分に対する拒絶に聞こえた。
モルダーは傷つき、その痛みに苛立った。

「元の世界にいたって、ろくな事のあったためしがないだろ?」

投げやりに吐き捨てる一方で彼は、自分の卑怯な言い草で頬が急激に冷たくなってゆくのを感じていた。

“元の世界”のせいじゃない。
誘拐、姉の死、病気…。
彼女が受けた苦しみのすべては、僕に原因があるのに…。

どんなことがあっても彼女はモルダーを責めたりしなかったけれど、だからといって彼女に許されているとは、モルダーも思ってはいなかった。
彼は贖い切れない罪を背負った罪人で、スカリーの優しさから審判を保留されているに過ぎない。
“いずれ必ず彼女に見限られる”
その罰が下るきっかけは、現実逃避と取れるこんな一言かもしれなかった。
彼女は、現実の辛苦に涙を流しても逃げはしない自分についてきてくれたのだから…。

スカリーは俯いてしまった。
長い睫の影をぼんやりと眺めながらモルダーは、ほんの数秒前までそこにあった彼女の瞳の青さがもう無性に恋しくなった。

次に彼女が僕を見る時、その瞳には蔑みの色が浮かんでいるんだろう…。

やがてスカリーは意を決したように顔を上げた。
心までかじかみ無表情なモルダーをまっすぐに見つめて、彼女は言った。

「それでも、私たちが出逢えた世界だわ」



うっすらと霧に包まれた丘の中腹にかかると、遠くから話し声が聞こえてきた。
モルダーはスカリーと繋いだ手は離さず、足早に斜面を上った。

「……ったって聞いた?」

「猟師にお腹裂かれて、石ころを詰められたんでしょ? さんざんだわね、あの狼。数日前から下っ腹が痛くて、盲腸かも…って言ってたのに」

「それが、詰められた石の中にトルマリンの原石が混ざっていたとかで、却って体調が良くなったって喜んでいたわ」

「“瓢箪から駒”ってやつね」

声の主は頂上の庭に咲く花たちだった。
低めのトーンは鬼ユリ、鼻にかかったセクシーなのは薔薇、すみれは甲高く、舌足らずな発音。
咲き乱れる花たちの中で会話をしているのは道路に近い固い土に咲いている数輪で、殆どは柔らかすぎる苗床をゆりかご代わりに、あちこちで寝息を立てていた。

「川向こうの森のグレーテルは、体重が15ポンドも増えてダイエット中だって。だいたい甘いものの食べすぎなのよ。あの子のおにいちゃんも糖尿の気があるらしいわ」

「へ〜…。“甘いもの”といえばね、ロビンのところのテディベアが、蜂蜜を舐めようと壷に前足を突っ込んだの。そしたら、生地が蜜を吸い込んで大変だったのよ。中の詰め物にまで染みたもんだから、その足だけ重たくなっちゃって、傾いて歩いてた」

「あら、おやつを内蔵して歩いてると思えば、それもいいんじゃない?」

「まあね。あ、そういえば、このあいだ西の国の魔女が通ったでしょ? あたし、カゴの中身が見えちゃったんだけど、彼女が持ち歩いてるリンゴね、“陸奥”だったの。高級品種よ。もったいないわー、全部毒リンゴに加工しようだなんて」

「あの魔女は今、王妃も兼任してるから、生活に余裕があるのよ」

「やっぱり王室関係者はいいわねぇ」

「そうとばかりも言えないわよ。ほら、外に立たされっぱなしの王子もいるじゃない」

「ああ、石頭…っていうか、体全部が石の王子さま?」

「石じゃなくて銅だけどね…。それはともかく、お城から出されたおかげで若いツバメに出逢えたんだから、本人は“ラッキー♪”とか喜んでると思うわよ」

「その王子のツバメはどうしたの? あなたに入れ込んで通いつめてたのに、最近見かけないわね」

「あいつ? もう、しつこくって…。“あなたにはステディな関係の王子さまがいるんだから…”ってやんわり断っても、黙ってりゃわからないとか、本当はおまえのような女の子の方が好きだとか、しまいには“俺らの主人はふたりともオックスフォード大学の出じゃん? 同窓の主人を持つよしみでさー、俺らも主人たちのようにさー”とか言って、あたしの雌しべをついばもうとしたのよ」

「うわっ、サイテー! 雌しべを?!」

「ま、それは我慢できたわ。花びらをぴったり閉じて未然に防いだし…。でもね、ご主人さま同士の繋がりなんて、あたしたちには関係ないじゃない?」

「引き合いに出されるだけでも腹立たしいのに、何? その含みのある言い方。ご主人さまをお○モだち(自主規制)みたいに…」

「でしょお? だから、はっきり言ってやったの。“あんたのご主人と一緒にしないで! あたしたちのご主人さまはホ○(再び自主規制)じゃなくてロリコンなのよ!”って」

「…すみれちゃん、それ、禁句…」

とてもじゃないけど、横から口を挟める状況ではない。
タイミングを見計らって話しかけようとしたモルダーの試みは、彼女らの息をもつかせぬ姦しさの前に何度も玉砕した。
スカリーは、はなから井戸端会議に割り込む気などなかったらしく、庭の際の見慣れない草を興味深げにいじっていたが、そのうち眠っているユリの花をつつきだした。
それでも動かないとみると彼女は、花の前でパンッと手を打ち鳴らした。

スカリー、フラワーロックじゃないんだからさ…。
まあ、退屈するのも無理はないな。

「あきらめて、行こうか」

「賢明な選択だと思うわ」

モルダーが声をかけると、彼女は勢いよく立ち上がった。
彼女のスカートが起こした風で花びらが揺れても、モルダーが立つ時に彼の膝が葉にぶつかっても、花たちはまるで無関心だった。
なだらかな傾斜を下り始めた異邦人たちの背後で、声高なおしゃべりはまだ続いている。

「……かしら? あたしなら、空腹で起きちゃう」

「え? 彼女、もう目覚めたって聞いたけど?」

「うん。でも、起こしてくれた王子さまがタイプじゃないって、また寝ちゃったのよ」

「ハヤネハヤ沖の人魚も相当な面食いじゃない」

「あの娘、来てたみたいよ。身の上話好きの海亀が、遇ったって言ってたもの。外でイイ男見つけたからアプローチしに行くって、浮かれてたんですって。彼女曰く“陽に焼けた肌に白い歯が眩しいサーファー”だそうよ」

「わざわざこっちから行くの?」

「自分とこからじゃ、お姉さま方に止められるでしょ?」

「止めたくもなるわよ。何度め? 懲りないわねー。どうせまた他の女に取られて、泣きながら帰って来るのがオチなのに」

「見た目のいいのに限って、ろくな男じゃ……」



点在する低木が薄い霧に影を映す原野へと丘を下り切り、彼らはようやく騒々しさから逃れられた。

「女性同士のおしゃべりなんて、いずこも同じね…」

ため息をついたスカリーに肩を竦めてみせながら、モルダーは考えていた。

彼女たちの“ご主人さま”。“ロリータコンプレックスのご主人さま”か…。
彼がいなければ、この世界は生まれていない。

モルダーは足を止めて、近くに落ちていた木の枝を拾った。
その場で地面に片膝をつき、手にした枝で線を引き始めた。
いきなり突飛な行動に走る相棒には慣れているスカリーはこの程度では動じず、彼の横にしゃがんで、枝先の動きを目で追った。
彼は先に引いた数本の横線に縦の線を加えて、マス目を作っている。

「何を描いてるの?」

「スカリー、僕らが通り抜けた鏡は、何枚めだった?」

「確か…、42枚めよ」

出来上がった表にアルファベットを書き入れる手は止めず、彼は軽く頷いた。

「アリスの物語の作者、ルイス・キャロルは、なぜか“42”という数字にこだわりを持っていたんだ。作品にも、よく登場させている。そのままだったり倍数にしたり…。でも、それだけじゃ物足りなかったのか、文章の中にも隠したんだよ。アルファベット26文字に1から順に数字を割り当て、それらの数を足すと42になる言葉を使うことでね」

ローマ字の下段のマス目に数字を入れ終わり彼が隣を見ると、スカリーの眉が上がっていた。

「なに?」

「あなたの知識の幅広さには驚きだわ、と思って」

「彼とは同窓のよしみで…」

額面どおりに受け取るには眉毛の角度が鋭かったから、モルダーも言い訳がましくなってしまった。
彼女はまだ右眉を下げてくれない。

「…僕は、ゲイでもロリコンでもないからな」

「そんなこと思ってないわよ。…数字の話だったわね。それで?」

「…それで…、僕らが鏡を通り抜けた後、暗闇を案内してくれたのは“しっぽ”だ。“しっぽ”のつづりは? スカリー」

「t-a-i-l」

「その文字番号を足してみて」

モルダーが指す文字の下に書かれた数を、彼女は声に出して読みながら計算した。

「20、1、9、12…、42…」

「入口の“42”と案内役の“42”。当然、出口にもその数字が関係してくると思わないか?」

「多少強引な気もするけど、考えられなくはないわね…。でも、どうやってその“42”を探すの?」

「ここまできて、まさか立ち木の本数みたいな単純なものでもないだろう。場所を示す言葉を調べてみるべきだと思うんだけど、…まず手始めにこれを…」

モルダーは、表の右横に短い単語を綴った。

“creek”

「対応する数は、3、18、5、5、そして11、全部で42だ」

「バンビの小川?」

ひとつめで早々と“42”が見つかったことにスカリーは目を見開いたが、すぐに眉間に皺を寄せた。

「通って来た所は、振り返るたびに違う風景に変わっているのよ。同じ場所には戻れないわ」

「戻る必要はない。イギリスでは“creek”は、小川じゃなくて入り江のことなんだよ。惚れっぽい人魚も、そこから外へ出たんじゃないかな」


―――“外”でイイ男見つけたから、アプローチしに行くって… ―――


「…モルダー、あなた、あのくだらない噂話をしっかり聞いていたのね」

「ためになる内容だったじゃないか。おとぎ話の人魚姫に恋したらサーフィンの練習をするべきだ、って子供にアドバイスしてやれる」

さて、と彼は立ち上がって辺りを見回した。

「問題は、入り江のある方角だな」

スカリーは立つ素振りを見せず、まだ地面の表とにらめっこしている。

「スカリー?」

「…ガイドは、しっぽ以外にもいるみたい」

彼女は表と見比べながら、小石をひとつ拾い上げてモルダーに渡した。

「これに案内してもらいましょう」

「“小石”、p-e-b-b-l-e 、…42…」

スカリーは子供っぽく唇の端を上げた。 どうやら彼女はこのパズルを気に入ったようだ。
今後、彼女の報告書にはローマ字の代わりにアラビア数字が並ぶかもしれない。

ふっと息を吹きかけたあとモルダーが投げ上げた石は、急な放物線を描いて地面に落ち、彼のつま先、つまり後方に向けて跳ね返った。

「…」

ゆっくりと後ろを振り返った彼らの視界には、どこまでも続く水平線が広がっていた。



入り江はすぐに見つかった。
石の転がった延長線上をまっすぐ進んでぶつかった崖の下がもう、浅く湾曲した海岸線だったのだ。
幸い崖は低く、突き出した岩の3,4個も足場にすれば苦もなく目的地に到達できそうだった。
スカリーがフレアスカートを履いていることに配慮し、モルダーは彼女を先に下ろした。
少々残念な気持ちはあったものの…。

ゴツゴツした岩場に砕ける波がしぶきを、崖が造る壁まで飛ばしている。
その壁に寄り添い、モルダーの身長をゆうに超える高さの円錐が立っていた。
見ようによってはガウディの作品に見えなくもないそれは、牡蠣の殻が積まれて出来ていた。
芸術品とは総じて繊細である。
一見頑丈そうなこの円錐もスカリーが軽く触れただけで、一気に崩れ落ちた。
彼女は素早く身をかわしたため頭から牡蠣殻シャワーを浴びる悲劇は免れたが、足元が洪水ならぬ洪殻に襲われた。

「痛っ!」

「スカリー? 大丈夫か?」

「平気よ。貝殻でちょっと切っただけだわ」

モルダーの手を借りて脱出した彼女は、落とした視線を脚から岩肌に向けた。

「それよりモルダー、見て…」

崩れた牡蠣殻の向こう、崖の低い位置に洞穴が口を開いていた。
どんなに勘の鈍い人間でも、この穴が無意味に現れたとは思わないだろう。
躊躇せずモルダーが、身を屈めて中に入った。
穴はスカリーも呑み込んだ時点ですぐ閉じてしまったが、真っ暗闇にはならなかった。
奥にぼうっと、四角い緑の光が浮いていた。
光を目指してまっすぐ進み、少し広い場所に出た。正面に木の扉がある。光源は扉の上のプレート。
それには“入口”と書かれていた。ただし裏からでないと、そうとは読めなかった。

「…入口じゃないの…」

「いや…、鏡文字だから逆の意味になるんだ。“入口”の反対、これは出口だよ」

言いながらモルダーは、取っ手のない扉を押してみた。動かない。
岩との隙間に指先を入れて引いてみる。やはり動かない。
ありとあらゆる手段、といってもスカリーがスカートの裾で撫でたり、ふたりで体当たりしたりといった程度だが、分厚い木の板はビクともしなかった。
いいかげん疲れてしまった彼らは、強情な扉を背に並んで座り込んだ。

「このまま人知れず、朽ち果ててしまうのかしら…」

今のところ外へ出るいい案は思いつかなくても、出口はここにある。
意外に暗くはないスカリーの声に、モルダーも軽い調子で応えた。

「おでこに切手貼って、家に郵送してやるよ」

「“少女/取扱注意”のラベル付きで? 内容を偽ったかどで返送されるわよ。だいたいポストも無ければ、郵便集配人-mail-man-だって通らないし…」


「雄ウサギ-male rabbit-なら、ここにおるがね」

驚いて顔を上げたふたりの前に立っていたのは、確かにウサギだった。
時代遅れのチョッキと蝶ネクタイ、それに眼鏡…。テニエルの挿絵にそっくりな白いウサギ。
耳をぴんと立ててもスカリーの腰の位置にすら届かない体長だろうが、すでに立ち上がる気力もなく座ったままのふたりとは、ほぼ同じ目線になる。
彼は綺麗なピンクの瞳をしていた。

「紛れ込んでいたのは君らかい? 住人たちが噂していた。…呆れたね、いい年の大人じゃないか」

せっかちな童話のウサギとは違い、彼は威厳に満ちた穏やかさを持っていた。

「教えてくれ。これは一体、どういうことなんだ? 僕たちは鏡を通って、おとぎの国に来てしまったのか?」

どうすれば外へ出られるか訊くつもりだったのに、ずっと抱えていた疑問が先に口をついて出た。
モルダーは相棒に窘められると身構えたが、スカリーは黙っていた。
“ふん”とウサギはかけている眼鏡の縁を押し下げて、じろっと品定めするようにモルダーを見た。

「ふむ。妖精の羽もどきを身につけたそっちの彼女はともかく、なぜ君まで、と思ったが…。なるほど、扉が迎え入れたはずだ。君は“大きな子供”だから」

モルダーはいささかムッとしたが、ウサギは意に介する様子もなく先を続けようとした。
しかし…、

「いてて」

「あ、ごめんなさい」

妙におとなしいと思ったら、どうやらスカリーは、ウサギの背にファスナーを探していたらしい。
本当は、今まで出遭った生物の背中も確かめたくてウズウズしていたに違いない。
でも、これまでの言動から推し測るに彼女のファスナー探しが“遊園地アトラクション説”の実証というよりは単に興味の発現に思えたので、モルダーは吹き出しそうになった。
大体こんな小さな着ぐるみに入れる人間がいたら、それこそXファイルだ。

ファスナーは見つけられなかったのにどことなく嬉しそうな彼女を軽く睨んで、ウサギは“こほん”と咳払いをした。

「あー、さて、君の質問の答えだが…、ここは遊園地だ。子供たちの夢がいっぱい詰まっている。それらが具現化したものかもしれないし、そうではないかもしれん。どちらでもいいことだよ。君らのすぐ隣に私たちが存在することは、紛れもない事実なのだからね」

彼の言う通りかもしれないな、とモルダーは納得した。
どんな夢物語も、信じた瞬間から現実に変わる。

ウサギがチョッキのポケットから、鎖のついた懐中時計を取り出した。
片手で金の蓋を器用に開けた彼は、文字盤に目を落とした。

「そろそろ時間だ。爆破の準備をしなければ…。それにしても、巻き込まれないようにと気を使ってわざわざ知らせてやったってのに、まったく人間どもときたら…」

「なんだって?! あの爆破予告は、君が?」

素っ頓狂な声を上げたモルダーの横では、相棒がぽかんと口を開けた。

大勢のFBI捜査官と警察官が駆り出されている爆破予告事件だぞ。
まさかウサギが犯人だなんて…。

「その通り。この扉も古くなりすぎてね、よく出られなくしてくれる。事故が起こる前に壊そうと思ってな。おっと、もう起きてしまったか。君らが閉じ込められた」

頭を抱えたモルダーに目もくれず、犯人は時計の龍頭を巻く。

「ま、そんなわけで“どかん”とやるのが手っ取り早いと考えたんだが、そうすると君らの世界に影響が出ないとも限らない。人払いのつもりだったんだよ。“清掃中”の看板もな」

ふたりのFBI捜査官は顔を見合わせた。どちらも情けない表情だ。

よりによってウサギが犯人だなんて…。

「すまんが君、ちょっと私を持ち上げてくれんか?」

犯人は男性捜査官に要望した。
モルダーはのろのろと立ち上がり、ウサギの両脇に手を入れて肩の上まで抱え上げた。
毛むくじゃらの前脚でウサギは、懐中時計の鎖を出口を示すプレートの端に掛けた。
吊り下げられた時計の蓋をパチンと閉めると、時を刻む音が大きくなった。

…爆弾を持ち歩いていたとは、つくづく物騒なウサギだな。
なるほど、これで“どかん”とね…。あ…、

「新しい出口は作らないのか?」

「もちろん作るとも。迷い込んだ子供たちのために、出口がなければ困るだろう? ひととき遊んだらちゃんと戻って、彼らの在るべきそっちの世界で成長しなければ…。しかし近頃の子供は、いったん入り込んだらなかなか帰りたがらなくてね」

ウサギはモルダーの手から床に降り、長い耳を力なく垂らして首を振った。

“バクハ30ビョウマエ”

時計が金属的な音声で告げた。
弾かれたように耳を立ち上げたウサギは、モルダーたちに扉から離れるよう指示した。

「もう少し下がって。…よろしい。爆発が起きると同時に、向こう側への出口が開く。ほんのわずかな時間だ。光が見えたら、穴が閉じ始める前に一息に飛び込みたまえ」

「スカリー」

モルダーが差しのべた手を、彼女の小さな手がしっかりと掴む。
それを見たウサギが、目を細めて言った。

「ふたりに子供ができて歩けるようになったら連れて来たまえ。私たちのお茶会に招待しよう。君らの子供なら歓迎するよ。きっと、澄んだ瞳と強い心を持った子だ」







再び空間の歪みに眩暈を覚えて、地面に放り出された。
背中から倒れたモルダーはスカリーを正面で受け止めたため、今度は後頭部を打った。
目から火花が飛び散ったけど、彼女を守れたならそれでいい。
その彼女は、モルダーの犠牲的精神に報いるつもりなどさらさら無かったようで、ぱっと身を起こすと彼の体から滑り降りた。

「戻れたの?」

「どうやらね」

結局、彼らは同じ場所に帰ってきた。六角形の空間、42枚めの鏡。
置き去りにされたスカリーのバッグが転がっている。
白ウサギの目と同じ色の風船はモルダーの背面ダイブで割れてしまったのが痛ましい。

「ええっと、あの物語の出来事は、主人公が見た夢だったのよね。私たち眠っていたんだわ、きっと」

「スカリー、この期に及んでのセリフじゃないな。…これ、なんだと思う?」

モルダーは、指に挟んだ一枚の紙片を彼女に見せた。風船の残骸から覗いていたものだ。

「トランプのカード」

「見たまんまを言うなよ…。お茶会の招待状だ」

何か言いかけたスカリーを、携帯電話の電子音が呼んだ。
彼女は慌てて、音源であるバッグからセルを取り出した。

「スカリーです」

モルダーに目を向けた彼女の唇が“スキナーよ”と動く。

「ああ、申し訳ありません。電波状況が悪かったようで…。え? はい」

ガサゴソと更にバッグの中から出した手帳に、なにやら書き始めた。

「…わかりました。彼にも伝えます」

電話を切った彼女が、モルダーに向き直った。

「犯人から連絡があったそうよ」

「何て?」

「本部に送信元を割り出せないファックスが送られて来て、内容は…」

彼女は、わざわざ英国訛で手帳を読み上げ始めた。

「“FBIの諸君、お役目ご苦労であった。なぜ“ご苦労であった”と過去形か? 即ち、爆破予告は嘘だからである。なに、罪の無いいたずらだよ。諸君の日頃の勤勉さに対して感謝の意を込めた特別休暇をプレゼントするためのね。さあ、これからの時間は、君らも童心に返って遊園地を楽しんでくれたまえ”ですって。おまけに、文末にウサギの絵。ふざけてるわ…」

そうは言いつつも、彼女は微笑っている。

「まあ、こっちに影響は無かったとはいえ、実際に爆発はあったんだし…。で、他の捜査官は?」

「よっぽど重大な事件を抱えていない限り、局の福利厚生事業の一環としてここでリフレッシュする、…要するに遊ぶ許可を出した、って副長官が…。みんなループコースターなんかで歓声を上げているんじゃない?」

「ふーん。じゃ、僕らも自由の身か」

「あなたに、この一件をXファイルとして報告する気がなければね」

「そんなつもりはないよ。未来の僕らの子供のためにも…」

モルダーは手品師さながらの見事な手さばきで、スカリーの目前にもう一度“お茶会の招待状”を出してみせた。モルダーの予想に反し、彼女は“僕らの子供”発言に呆れた顔もせず、冷たい視線を返すこともしなかった。ただきつめに口を結んで、両の眉を上げた。
彼がその仕草の意味を測りかねていると、立ちかけた彼女のスカートが鼻先を掠めた。

「スカリー、血が…」

フレアスカートの裾を染め、彼女の右脚の脛に一筋、真っ赤な血が流れていた。
牡蠣の殻がつけた傷は、思いのほか深かったのだろう。

「傷口が開いたな」

「これくらい、たいしたことないわ」

「だめだ。ちゃんと止血しないと」

彼が腕を引っ張ると、スカリーはしぶしぶ腰を下ろした。
正面に向かい合う体勢から横にずれて彼は、細い足首を掴み彼女に膝を伸ばさせた。
ハンカチを取り出そうとポケットにやった手が止まる。
彼女の肌を流れる血…。
白と赤の鮮やかなコントラストに魅入られたモルダーは、吸い寄せられるように彼女の脚に唇を寄せた。
それ自体は衝動的な行為だったが、彼女が驚いて脚を引っ込めようとするのを許さなかったのには、確固たる意思が働いていた。
足首近くまで引かれていた赤いラインを舌でなぞり、丁寧に傷口を舐める。
口の中に広がる鉄の味。それすらも彼には、蜜のように甘く感じられた。
彼女もあきらめたのか、おとなしくしている。
胸を締めつける何かに急き立てられ、モルダーは上目遣いに彼女を見た。

「…スカリー、昼間僕が言いかけたことを憶えてる?」

「え? ああ、“話したいことがある”って…。何だったの?」

“話したいこと”。モルダーは、彼女への想いを告げようとしたのだ。
成果は求めていなかった。ただ抑えているのが苦しすぎて、すべて吐き出してしまいたかった。
なのに、彼女に遮られ安堵した自分もいたけれど…。

「あれは…、甘く考えすぎていたよ。言い尽くせる言葉がとても見つかりそうにないんだ。だから、別な手段で伝えるチャンスを僕にくれないか…?」

彼女が受け入れてくれる確信などない。
それでも、ふたりが出逢えた世界だから帰りたいと言ってくれたあの時の、彼女の瞳を信じたい。

その瞳は今、驚きもうろたえも示さないで、静かな青い光をモルダーに当てていた。
沈黙が転がる。
居心地の悪さに我慢できずモルダーが顔を伏せた直後、彼女のてのひらが頬に温もりをくれた。

「“少女”じゃなくても傷つきやすいのよ。取扱いに注意して」



マザーグースによると、“女の子はお砂糖とスパイスと素敵な何もかもでできている”そうだ。
単なる比喩と言い切れない証拠が横たわっている。
モルダーはそれに見惚れていた。
小さい両手にたくし上げられたシャツから腕と頭を抜くわずかな間も惜しいくらいに。
乱れた彼の髪を撫でつけて、スカリーが微笑んだ。

妖精の羽を脱ぎ捨てて尚、儚さが香り立つ柔らかな曲線。
ほんのりと光るように白い肌。
内側はきっと“素敵な何もかも”の上澄みだけで満たされいる。

彼女の極上の魂が宿るにふさわしいこの体が、犯罪者との格闘なんかに耐えなければならないと思うと、モルダーは胸が痛くなった。
あらゆる危険から守りたくても彼女はそれを望まないから、せめてもの代わりに彼はくちづけの雨を注ぐ。

スカリーがモルダーの髪を梳くのを止めて、しなやかな腕を彼の首に巻きつけてきた。
そのまま引き寄せられ、胸を重ねた。
肌と肌が直接触れ合う感触にモルダーは、切なさをため息に変えて解き放した。
耳の下にくちづけ、速まる彼女の脈動を味わう。
唇は時間をかけて、砂糖より甘いスカリーの顎と喉を通り小さな窪みで休んでから、ようやく胸の高みを訪れた。
彼女の蕾の可憐さといったら、どんな花の蕾もかなわない。
モルダーの舌先の動きに色味を深め、かすかに震えながら硬さを増してゆく。
ふと自分のひとりよがりになっていないか気になり、モルダーは目線を上げて彼女をうかがった。
スカリーは指の先を彼の頬に滑らせて口元を弛めた。

「モルダー、あなたの手も唇も、とてもおしゃべりだわ…」

はにかんだ笑顔を返したあと彼は深いキスでスカリーの舌を追い、右手は彼女の胸元を離れた。
平らな腹部を撫で下ろし、やがて内腿に辿りつく。
彼女の入口は胸の蕾の震えに呼応したように、もう充分潤っていた。
ぬるい水に誘われてそっと指を忍ばせると彼女は反射的に腰を浮かせ、息を呑んだ。
中指を曲げて幾度も押し戻すなめらかで熱い抵抗。
彼女の呼吸が、浅く速く繰り返される。

「モルダー…」

「…っ!」

背中に回されていたスカリーの手が脇腹を経て、硬いジーンズから開放されたがっているモルダー自身に触れた。
もう片方の手は、彼のウエストを彷徨い始めた。
身震いを堪える彼の耳に、かすれたささやきが届く。

「あなたが欲しいの」

言葉の方が、より刺激的だ。それが彼女の口からこぼれたものなら尚さら。
モルダーはのぼせて酸素補給も忘れそうだったが、溺れるのにはまだ早い。
自分を落ち着かせるために彼は、ゆっくりとひとつひとつの単語を発した。

「やたらに欲しがるのはね、上品なことではないんだよ」

状況にそぐわない道徳的発言は、スカリーのいたずら心をつついた。

「じゃあ、言い方を変えるわ。…“私を食べて”」

「食べたら僕は、小さくなってしまうかも…」

「大きくなる方かもしれないわよ?」

前菜だけで、すでに結果は出ている。
彼女もそれを知っている。

こんな時でも軽口の応酬をしてしまう自分たちがおかしくてモルダーが漏らした笑い声を、彼女が唇で受け止めた。

“どくん”と響く心臓の音。
更に窮屈になったジーンズ。

気をつけよう、君を壊さないようにね。



互いの体を指先でなぞって、付け合った赤い痕を追う。
気だるさの中で寝転んだまま、そんな風にしばらく過ごしていたが、床が硬くて背中が痛い、とスカリーが上半身を起こした。
彼女の体温があった場所に、冷たい空気が流れ込む。
モルダーは急に不安になった。

彼にしがみつきながらスカリーは、今まで見せたことのない顔で彼の名を呼び続けていた。
濡れた瞳と声はモルダーを捉えて離さず、その興奮を極限まで煽った。
ただ一瞬を除いて…。
大きく身を捩る彼女に合わせて上体を浮かせた時、ふいに周りの光景が視界に飛び込んできた。
鏡に囲まれた空間はまるで万華鏡のように、絡み合うふたつの肢体を映し出していた。
たくさんの彼女を、同じたくさんの彼が抱いている。
鏡に映った幻影。そこには温もりも匂いもなく、夢の中でしか叶えられない願望に似ていた。
彼女の言葉が脳裏を掠めた。

――― あの物語の出来事は、主人公が見た夢だったのよね ―――

あのとき瞬時に振り払ったはずの恐れが、再び首をもたげてきた。
彼は起き上がり、スカリーの白い背中を強く抱きしめた。

触れることなど決してかなわないと思っていたあたたかくてやわらかい存在が、自分の腕の中にある。
氾濫する幻に埋もれない、これがたったひとつの真実。
彼はスカリーの肩に顔を埋めて、泣き出しそうな表情を対面の鏡から隠した。

「モルダー?」

「…僕のアリス・リデルは、立派な大人の女性だ。思い切り抱きしめても、児童虐待だと訴えられたりしないだろう?」

「“アリス”って…。そんなガラじゃないわ」

ふっと力を抜いて彼女が、モルダーに背中を預けた。
心地よい重みが嬉しくて、照れたような口ぶりが愛しくて、彼に涙ではなく微笑みが浮いた。

君はアリスそのものだよ。
好奇心に目を輝かせ、勇気を胸に真っ暗な穴へ飛び込んでゆく。
そこに待ち受ける何かが、たとえ君の信念に反するものであっても。

「だけど…、そう、もしも私がアリスなら…」

「ん?」

「あなたは白ウサギね、モルダー。不思議の国への案内人。あなたの後を追いかけて私は、知らない世界と知らない自分をみつけるのよ」



正しく“出口”と表示されたドアを開くと、外はもう夜の帳が降りていた。
カラフルなイルミネーションが留めつけられた華やかな夜だ。

「きれいね」

「ああ…」

眩しいほどの電飾の波が揺れる。
そこを泳ぐ人々の、光に劣らず輝く笑顔をモルダーは眺めていた。

もしかしたら、今日初めてコンビを組んだ捜査官同士が恋に落ちたり、もしかしたら、昨日は喧嘩していた恋人たちが仲直りしたり…。

散りばめられた偶然と必然。
苦しみや悲しみの砂地にさえ息づく希望。
君が僕の隣に立つ奇跡。

この世界もまた、おとぎ話に満ちている。


戸口に佇んだままの彼の腕に、スカリーが手を伸ばした。
肘を滑ってきて、彼のてのひらを掴む。

「行きましょう」

この小さいけれど温かい手も

「そうだわ、モルダー」

僕を見上げる真っ青な瞳も

「私の口紅、弁償してくれるのを忘れないで」

活発に動く愛らしい唇も、
君のすべてがそばにあると確かめながら、歩き続けたい。

「わかってるよ。ちゃんと買っておくから、君の“知らない自分をもっとたくさん見つける旅”、或いは“伝え切れなかった僕の気持ちを聞いてくれる旅”への出発口まで受け取りに来てくれ」

一瞬きょとんとした後スカリーは、声を立てて笑った。

「いいわよ。喜んで伺うわ、私の白ウサギさん」

古びたアパート、昨日までとは違う顔で彼女は42号室のドアをノックする。

モルダーは約束のお礼に、彼女の額にキスをした。
彼女の指先にわずかに力が入ったのを、てのひらが感じた。
その感触ごと彼が小さな手をきゅっと握り返し、ふたりは彼らの場所へと踏み出した。



End





■おまけ

「…モルダー、それは一体なんのマネ?」

「男が女性に口紅を贈る意味を知ってる? スカリー」

「くどいているのよね。“キスで少しずつ返してくれ”って…」

「その通り。で、この口紅はプレゼントじゃなくて、君への弁償品だろ? だから…」

「あなたの言いたいことは分かったわ。でも私は、分割ではなく一遍に返して欲しいの」

「え〜? せっかくきれいに塗ったのに…」




2002/06

 



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