SpoilerSeason8



「おかえりなさい」

私のその言葉に微笑んだ彼は、どこかいつもと様子が違って見えた。

「モルダー?」

「ん?」

「顔色が悪いわ。どうかしたの?」

なんでもないよと答えて、私の腕の中を覗き込む。
抱いていたのは、ミルクを飲み終えて今は満ち足りた表情で寝ている赤ん坊。

「よく眠っているな」

そっとウィリアムの頬をつついて、彼が呟いた。
その声のトーンに言い知れぬ幸福を感じて彼を見上げると、薄茶色の瞳に出会った。
優しい色。

でも、私は見逃していた。
そこにわずかな翳りがあることを…。





■DEAD CALM■





つい先日までよくあちこち出歩いていたようだが、この頃の彼は私のアパートにいることが多い。
しばらくは何もせずにゆっくり過ごすべきだと言う私の意見に、彼は少し困った顔をしてみせた。
だが、“ウィルにパパと認めてもらえなくなるわよ”、この言葉は効果てきめんだった。

本音を言えば、私の手の届くところにいて欲しかっただけだ。

あなたがいない間、息をするのさえ苦しかったのよ。
それに耐えてきた私を、ほんの少し甘やかしてくれてもいいでしょう?

こんなこと彼には絶対、言えないけれど。


私はFBIに復帰していた。
彼が帰って来たとはいっても、結局あの事件に関して何の解決もみていない。
ウィルのことにしても、謎は残ったままだ。
ここで放り出すわけにはいかなかった。

戻ってからすでにひと月。今のところ取り立てて変わった事件もない。
ありふれた事件をXファイルにしてしまう前任者がいないおかげか…。

とはいえ、他の課の要請で検死やらDNA解析やらをする合間に、過去のXファイルとあの事件の関連を調べたりと、忙しく過ごしている。

昔、彼が仕事漬けの自分の生活を指して“普通”と言ったことに心底呆れたけれど、結局のところ、それは私にとっても“普通の生活”になってしまっていたらしい。
私の中で、“多忙”は“張りあい”と同義語になっている。
ただ、今の私があの頃の彼と違うのは、一般的な意味での“普通の生活”も手に入れていることだ。


週末は、遅い朝食のあと散歩に出かけた。

足もとに転がって来たボールを、彼が向こうの少年に投げ返す。
振り返った彼の髪が、陽に透けている。

「ダナ、ウィルにもグローブとボールが要るな」

気が早すぎるわと笑う私に、彼は肩をすくめた。


通り過ぎる風が木々を揺らす。
少し乱れた私の髪を直すあなたの指。…あなたの、指…。


私たちは知っている。
今この時のやすらぎが、明日も約束されているわけではないと。

それでも、日々がこんな風に続いて行くと思えた。
この先もずっと…。







エレベーターに乗り合わせたラボの研究員が、所用で出かけた病院で彼を見かけたと言った。

「モルダーさん、どこか具合でも悪いんですか?」


曖昧に微笑ってはぐらかしたが、私の心臓は早鐘を打っていた。

病院? 私に何も言わずに?

得体のしれない不安がよぎる。


その夜帰宅すると、彼はウィルを抱いて迎えてくれた。

「ほら、ママのおかえりだ」


病院の件を訊きたいのに、怖くてできない。

なぜ?
誰かの見舞いに行ったのかもしれない。
他にも考えられる理由はたくさんある。
なのに、なぜ訊けないの?


「ウィルは今のベビーシッターを気に入っているようだけど、やっぱり君にはかなわないみたいだな。まして僕じゃ到底たちうちできない」

私に視線を向けて嬉しそうに両手をばたつかせるウィルを見て、彼が笑った。



「モルダー、あなた今日どこかへ出かけた?」

ふたりで作った夕食を摂りながら、さり気なさを装って訊ねてみる。

「え? ああ。君が言うところの“三バカ大将”に会いにね。なぜ?」


  ――――― 彼が、嘘をついた ―――――


あの研究員の見間違いだとは思わなかった。
ただの勘だと言えない何かが、私にそう告げた。“彼が嘘をついた”

「ダナ?」

答えがないことに怪訝な顔を向けた彼に、慌てて取り繕う。

「深い意味はないのよ。ただ訊いてみただけ」

「そう」

「ええ、…そうよ…」



彼が眠っていないことに気がついていた。
私もまた、目を瞑ってはいたが眠れずにいる。
出口のない思考の迷宮を彷徨っている。

迂闊だった。
彼がその気になれば、私の目から自分の本心を隠すくらい容易いことだろう。
それでも、どこかに必ず綻びは見えたはずだ。

そういえば以前、外出から帰った彼にちょっとした違和感を抱いたことがあった。
しかしその後、特に変わった様子もなかったので忘れていた。

彼が意外なほど簡単に私の意見を受け入れて、私とウィルのそばに居てくれるようになったのは、あの前からだったか、後からだったのか…。


でも、何かあるのなら、なぜ私に話してくれないの?


……問うまでもなく、わかっているのだ。

私を包むこの腕の優しさが、わけを語っている…。


ふいに切なさが込み上げてきて、そっと目を開けて盗み見た彼の横顔は、どこか遠くを見つめていた。
それが、私の不安が決して的外れなものではないことを確信させた。



数日後、オフィスにいた私のもとに彼の医療記録が届いた。

そこに記されていたのは ――――――――――――――







私は、呼び出されて彼のアパートに来ていた。

私のアパートとを往き来していたこの数ヶ月の間にすっかり片付いてはいたが、まだカウチは処分されずに、今も彼を抱いている。


“モルダー、これは私のアパートには置けないわ”

“僕の恋人なんだよ、ダナ。いつも一緒に寝ていたんだ”

“それじゃなおさらよ”

こんな時なのに、あなたの戯れ言を思い出しているなんて…。


この数日、私はラボに泊まり込んでいて、今日も病院から借り受けた彼の細胞組織を検査していた。
厳重に保管されていたワクチンを使っての反応を待つ。

彼の医療データの意味するところは、担当医も理解できなかったろう。
数回に渡る検査の経過から私が読みとったものは、終わったはずの悪夢。

“それ”はとても緩慢に、しかし確実に進行していた。
あの時、彼を救ったように見えたワクチンの効果は、表面上だけにすぎなかったのか。


いいえ、そんなはずないわ!


一縷の望みを胸に私が電子顕微鏡で覗いたものは、真っ暗な絶望の淵だった。
それはぱっくりと大きな口を開けて、私を飲み込もうとしていた…。


あとのことはよく憶えていない。
携帯の鳴る音に気がつけば、電気の消えた地下のオフィスにいた。



「変化が始まっている。わかるんだ。今度はもう止められない」

このところの様子で、私がすべてを知ったと見抜いていたのだろう。
リビングの入り口に立ったままの私に視線を据えると、彼はためらうことなく切り出した。


「でも、きっと他になにか方法が…」

喉に鉛がつまったように、最後までは言えなかった。


「そんなものはないってことは、ダナ、君がいちばん判るだろう?」

彼が静かに立ち上がる。
その手には小さな拳銃が握られていた…。


見慣れたこの部屋が、私には大きな水槽に思えた。
冷たい水で満たされて、酸素を求めて喘いでも水面までたどり着けない…。

一歩二歩と歩み寄り、私の前に立ち止まった彼の瞳は、穏やかに私を映し出している。
溺れる私を、映し出している。


「スカリー、最後のわがままだ」

次の言葉を予感して、心臓がビクンと跳ね上がる。


「……君の手にかかって死にたい」


声は出なかった。こらえていた涙が堰を切ったように、ただ流れた。

彼は今、私を“スカリー”と呼んだ。敢えて、そう呼びかけたのだ。
“スカリー”なら、彼の置かれている状況を的確に判断し、“彼女”の成すべきことを果たすだろう、と。
“彼女”なら、彼が最期まで彼自身でありたいと願うことを理解してくれるだろう、と。
それが“彼女”にとって、どんなに辛いことであっても。

彼の決意を思い知る。と同時に、相棒としての私に対する、彼の想いの深さに胸が締めつけられる。
重ねる日々ごと強まっていった信頼と尊敬。出逢いの時から今へ。すべてを委ねてしまえるほどに。
もし私が彼の立場だったら、やはり同じ事を望んだだろう。

彼に起こっていること、そして、それを止めるすべがないと知った時、私の中に同じ思いが生まれたことは事実だ。
かつて彼がしようとしたように、彼を孤独のうちに自ら逝かせるくらいなら、あるいは誰かの手にかけさせるくらいなら、いっそ私が…。


でも、モルダー。あなたは忘れている。
私にもあなたへの想いがあるということを。
二度とあなたを失いたくないという、強い想いがあることを。



荒れ狂う内面の葛藤に呆然と立ちつくす私の左手を取ると、彼は銃を握らせた。

「……できないわ」

ようやく絞り出した言葉は、拒絶には聞こえなかったろう。

振りほどきたいのに、体が動かない。
そう、泣き叫ぶ心とは裏腹に理性が、他に方法はないと告げていたから。
彼が、フォックス・モルダーであるために…。


じっと私の目を見つめたまま、彼は私の手を持ち上げ、自分の右顎に銃口を押しあてた。
彼の瞳は凪いだ海のように、変わらず穏やかだった。

この凪を彼がその瞳に宿すまでに、どれだけ苦しんだのだろう…。


「…すまない」

大きな片手で私の溢れる涙を拭い、頬から肩へと指を滑らせる。
わずかに屈むその動きにつれて、ふわりと彼の匂いがした。

彼の冷たい唇が私の唇に触れた刹那、私の左手を包む彼の手に微かな力がこめられた。
それに応えるように、私は引き金を …… 引いた。



大きな破裂音に耳が聞こえない。
思考が止まって、甘やかな夢にさえ感じた瞬間。

私の目の前で彼が崩れ落ちる。
ゆっくりとゆっくりと、まるで水の底に沈んで行くように…。


永遠とも思える一瞬が通り過ぎ、視線を床に落とすと残酷な現実が横たわっていた。

ひざまずき、彼を抱え込んだ私の両腕が、真っ赤な血で染まって行く。
震える手で彼の頬をなでると、そこにも赤い花が咲いた。


「…モルダー?」

こたえが返るはずもない…。


もう二度と、その目を開けて私を見てくれないの?
もう二度と、その口から私を呼ぶ声は聞けないの?
こんなに温かいのに。あなたの血も体も、まだこんなに温かいのに!


声を上げて泣きながら私は、狂ってしまえない自分を呪った。







彼の死は、単なる自殺として処理された。
銃を握った私の手を包んでいた彼の利き手から、硝煙反応が出たのだ。

私が彼を撃ったのだという主張は、銃に残されていた私の指紋という証拠とともに、スキナーに退けられた。
「モルダーの意思を汲んでやれ」と。

スキナーはあの日、オフィスで彼からのEメールを受け取ったのだ。
そこには、彼の身に起こっていることの詳細と、その決着のつけ方が書かれていた。
もちろん、彼の“わがまま”は記されていなかったが…。
最後に“スカリーとウィリアムを守って欲しい”という言葉。


メールは、そのまま遺書とされた。







そこかしこに彼の匂いが残る自分のアパートに戻るのがいたたまれなくて、あの日以来ホテル暮らしをしていたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
ウィリアムは、ラボにこもる際母に預けたきりだった。

母親失格ね。

自嘲しながら車を走らせる。
ともすれば対向車線に突っ込んでしまいたくなる衝動を、押さえるのに苦労した。



ドアを開けて私を迎えると母は、黙って抱きしめてくれた。
いつものように素直にその癒しを受け入れれば、少しは楽になれるのかもしれない。
でも、私はまだ癒されたくはなかった。

ウィルに関する短い会話の後で、私は紅茶を飲み終えるのもそこそこに立ち上がった。
泊まって行きなさいとの言葉にかぶりをふって、眠ったままのウィルを抱き取る。

「…フォックスは、土に還って地上の命を育むでしょう? だから」

唐突に慰めを口にしようとした母を、思わず遮ってしまった。

「ママ、モルダーは火葬にされたのよ」


彼が望んだ事だった。彼の身体に巣食うウィルスが、その死とともに消滅するとは限らない。
彼の体組織から新たなワクチンをつくったとしても、ウィルスを弱毒化させてつくられるそれは、諸刃の剣となるかもしれない。
悪意を持った誰かの手に渡ったら、と想像するだけでぞっとする。
しかも、その確率は決して低くない。私たちの周囲には、見えざる敵があまりに多いのだ。

しかし、火葬という手段が最善の方法だとわかってはいても、やはりやりきれなかった。
この地球上のどこにも、彼が存在した証拠は残らないのだ。
そのことが、なおさら私を痛めつけていた。


言葉を失った母に向かって唇の端を上げてみせたけれど、ただ顔を歪めたようにしか見えなかったに違いない。
ぎゅっと私の肩を抱いてくれた彼女の仕種が切なかったから、滲んだ涙を落とす代わりに、大きくため息をついた。


その時、目を醒ましたウィルが探るように手を伸ばしてきた。

私の顔に触れる小さなてのひら。 温かいてのひら。
いつも私のそばにあった、あの温もりと同じだ。

ああ、私ったら、こんな大切なことを忘れていたなんて…。


モルダー、あなたの生きた証が、確かにここにある。







久しぶりに帰ったアパートには、少しばかりのよそよそしさが漂っていた。
が、それも徐々に薄れて行くだろう。
そんな風に、日常は戻ってくるのかもしれない。
望むと望まざるとにかかわらず…。


ベビーベッドにウィルを寝かせた時、電話のメッセージランプに気がついた。
そういえば、随分チェックしていなかったことになる。
別にたいした用件が入っているとも思えなかったが、再生ボタンを押した。


“…スカリー”


聞こえてきたのは懐かしい声。

驚きが混乱を招いても、瞬時に理性が働く。
あの日、私を呼び出した後に録音したのだろう。
彼らしいやり方に苦笑するつもりだったのに、また涙が滲んできた。


“僕は信じている”


続く言葉に、左頬だけで微笑む。

“いつかまた、どこかで君にめぐり逢えることを”



私の心の中に、ぽうっと小さな灯がともる。
こぼれた涙はその灯に暖められて、もう冷たくはなかった。


まったく、あなたらしいわ。そんなことが有り得るとでも?


だけど…。


ええ、モルダー。私も信じるわ…。



End




2001/08

 



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